良いか悪いかを決めつけるよりも分かるかどうかってことの方が大事かも
今回のネタは移動中の車内で聴いていたCOTEN RADIOの番外編で触れられていた内容から派生して考えたことについて書くことに。
いまの世の中には、「善と悪」「陰と陽」「正と誤」「表と裏」「楽観的と悲観的」みたいな感じで対をなすような意味をもつ言葉や考え方がある。そして、目の前で起こっている現象や誰かの言動に対して、そのどちらか一方の評価みたいなものをあてはめて捉えようとすることを、多くの人が経験したことあると思う。
僕もそう。そして、もう少し厳密にいうと、価値観やセンスみたいなものに対しては人それぞれという捉え方をするものの、人としてどうか?みたいな倫理観的なことについては、こうあるべきみたいな考え方をしていた。
ただ、COTEN RADIOを初回から200話以上聴きつづけ、それを通して様々な時代の様々な世界における出来事とその背景や人間模様などを知ることで、今考えていることや倫理観みたいなものは、あくまでも今の時代だからこそ言えることであり、前提となる時代背景、絶対的な価値観、社会制度、環境などが異なれば、その考え方や倫理観がフィットしないとか、冒頭の対をなす捉え方が180度違ってくる可能性も十分にあるということがよく分かった。
なので、表面的なことだけで、その良し悪しを判断することは、ちょっぴり浅はかだったなっていう風に思えるよになったし、そういう含みを持ってものごとを捉えられるようになったという意味で、少し成長したなって感じている。もう50歳なんですけどねw
なにごとにも、当然ながら背景がある。文脈がある。理屈がある。
だから、たった今起こっている目に見える事象だけで、それがどうなのかを判断することは、厳密に言うとできない。あくまでも、それは氷山の一角であり、その水面下にあるものに目を向け、それを理解してはじめて、目の前の事象が何を意味しているのかが本当の意味で理解できるってことになる。
そこまでいくと、例えば個々人が持つ良し悪しの基準でその事象を捉えるよりも、その事象自体のことを正しく理解しようとすることの方が重要だし、意味のあることなんじゃないかと思えてくる。
そういえば、最近いろいろやってる嫁さんも昨日言ってたけど、冒頭の対をなすものって、どちらかが絶対的に正しいみたいなことはないし、人それぞれに濃淡があって混在していたり、時と場合によってそれが入れ替わったりするようなもの。もしくは、バランスが大事っていう捉え方もできたりする。
たしかに、そうだと思う。
そういう意味でも、良いか悪いかを決めつけるよりも、分かるかどうか、分かろうとするかどうかっていうのが大事なんじゃないかな、って思うようになった。そして、そんな風に考えることで、様々なことを受け止めることができる余裕みたいなものが少しずつ育ち始めているなって感じた。
COTEN RADIOに感謝!
ということで、今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!