見出し画像

【考察】本当のSはMってどういうこと?

そんな苦しい思いしてまでなんで走るの?しかもお金払ってまで。
ランナーの方なら一度は言われたことがあると思う。
分かりやすい理由として語られることが多いのは、達成感。
そのほかは、人それぞれ色々あると思う。
そして、そこから学べることもたくさんある。
僕が学んだことは、↓のリンク先を読んでいただきたい。

ところでその話と表題に何の関係があるのか?
まずはその部分について説明しておきたい。
昨夜、敬愛するザキオカ先輩を囲む宴が催されたんだけど、SMの話題で盛り上がった一幕があった。この人はSだとか、自分はMだとか、そういう感じの話。
で、ザキオカ先輩が語りはじめた。
「世の中を支えているのはMの人だ。」
「だって、Sの人にはMの人が必要。でもMの人はSでもあるからSの人が絶対必要なわけではない。」
だいぶ端折って書いてるので、???ってなるかもしれないけど、この部分については、のちほど。
で、最後にこう結論づけた。

「ほんとのSはMなんだよ」

??? 不覚にも一瞬フリーズしてしまった。
それまでの話はすごくしっくりいってたんだけど、この言葉は名言というより迷言にきこえてしまったから、深そうだけど整理がつかない旨を伝えると、
「明日noteでまとめるように」
っていう指令がくだった次第。
だから、今回はこのテーマについて書くことに。
そして、僕自身がこのテーマを考える際、マラソンの話が例えとして分かりやすいなって思ったから、冒頭の問いかけを紹介したわけです。
ここからは、まず言葉のニュアンスについて整理した上で、1つ1つのセリフについて考察したいと思う。

SとMの定義

SMについてはちゃんとした定義があると思うけど、今回の会話で用いられたのはそういう厳密な話ではないので、まずはその話題になったきっかけと、言葉のニュアンスについて整理しておく。
ほんとによくある楽しい酒席をイメージして欲しい。
エンターテイナータイプの方が面白おかしく色んなネタを提供し、それにのっかって盛り上がる人がいたり、何かをけしかける人がいたり、その被害を受ける人(当人は喜んでいる)やそれをみて楽しむ人がいたりして、たびたび爆笑を巻き起こしながらテンポよくやりとりが進んでいく状況。
そんなとき、笑いながらぶっ込んでくる人に対して一同が「S」だね〜ってツッコミをいれたところから、この話が始まった。

つまり、今回は対人コミュニケーションにおける振る舞い方をSやMで分類しようとしていたってこと。そこから、同じ場にいたメンバーがどっちタイプなのかっていう話に展開した感じ。そして、この場では、すべてがエンターテイメントであるってことが大前提であった。
なので、言葉のニュアンスは、ざっくりいうと以下のような感じになる。

・Sタイプの人は楽しそうに責め、
 Mタイプの人は責められて喜ぶ

・Sタイプの人は他者をいじって楽しみ、
 Mタイプの人は他者からいじられてオイシイと思う

Sの人にはMの人が必要でMの人にはSの人が必要ない理由

この点については、前提条件を整理しながら考える必要がある。

まず、「SにはMが必要」という部分について。
これについては、自他の間にSとMの関係が成立する場合を前提とする必要がある。その前提が成立していれば、Sの人にとってはMの人の存在があってこそ、Sらしい言動ができ、そこから多分喜びみたいな感情を得ることができる、ってことになるのだろう。裏を返すと、相手がいなければSを発揮できないってこと。だからSの人にはMの人が必要ってこと。

次に、「Mの人にはSの人は必要ない」という部分について。
これは、必ずしもっていう枕詞も必要かもしれない。なぜなら、考慮すべき前提がさらに2つあるから。
①さきほど同様に自他の間にSとMの関係が成立する場合を前提とした場合は、単にここでいうMの人はSの人から責められたりいじられたりすることに喜びを感じるという意味で、そのためにはSの人の存在は不可欠となる。なので、Mの人にとってもSの人は必要ってことになる。
②一方で、その前提ではなく、SとMの関係が自己完結することを前提とした場合にはどうなるか?
冒頭のマラソンの話にもあてはまることだけど、トレーニングなどで自分をガンガン追い込めるタイプの人を想像すると分かりやすいだろう。
他者からみると、そんなキツイことをやるなんて、ドMだねって感じのことを言われるかもしれない。たしかにそうではある。けど、それを可能にするのは、自分をとことん追い込むというドSな部分がその人にあるからこそ。
つまり、SとMの関係が自己完結しているため、どちらかの役割をもった他者の必要がないってこと。

本当のSはMっていう理屈について

いよいよ最後の部分。
上述のように、SとMの関係が自己完結することを前提とした場合であれば、このことはなんとなく頷けると思う。いくらSでも、それに耐えうる、もしくは受け入れ可能なMとしての自分がいなければ、成立しないから。

ただ、自他の間にSとMの関係が成立する場合が前提だとなかなか難しい。
昨夜から、ずっとそのことを考えていた。そんなとき、この話題のあとにザキオカ先輩が話していたことを思い出した。それは、以前、ザキオカ先輩がバレーボールの指導のことで、日笠先生から受けたアドバイスというか指摘で、指導者たるものこうあらねばならないっていう話。

選手に言うなら、お前が率先してそれをやれ。
でないと、それを選手がやるわけがない。

みなさんも似た話を聞いたことありませんか?
子どもは親の言う通りには育たない。親のように育つ。

つまり、自他の関係という前提のなかでも、指導者のような立場の場合、相手の成長のために力を尽くすべく超厳しく接する部分もあると思うけど、その際、それを徹底的にやろうとすると、側から見れば指導者がドSでその相手が耐えて頑張るならばドMみたいにうつるかもしれない。そいう側面もある。ただ、指導者側がそのドSを貫きその目的を果たすためには、上述のような率先垂範の姿勢が絶対条件であるため、実はその矛先は指導相手ではなく自分自身にも向いており、それに耐える、もしくはそれを徹底する覚悟がなければ、やれないってこと。

だから、本当のSは(究極の)Mでもあるってことなのかな。
で、これは指導者に限定する必要はなく、人間性が重要という価値観をベースにした場合、「一流のSは一流のMである。」っていうふうに結論づけたい。
これが僕なりの解釈。

自分を厳しく律することの大切さを再認識できた。
やっぱり、深い話であった。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?