初めて入手した日本刀について
今から五十年近く前、当時私が住んでいた家の近所のご老人から、1口の脇差を譲ってもらい、喜び勇んで帰宅し、早速鞘から刀身を抜いて眺めてみました。
しかし、初めて入手した自分の刀ではありましたが、刀身はかなり錆付いていて、まともに「鑑賞」できる状態ではなく、刀とはこんなものかと少々期待はずれでした。
それでも、取手(柄)のところから刀身を外し、柄の方を眺めていて、中心部分に何か変わった模様の金具(目貫)が付いていることに気づき、どうしてもその金具の表裏の状態を見たくなりました。
そこで軽率にも道具箱からカッターナイフを取り出し、柄に巻かれている組紐を切り、金具を外して、その図柄をしみじみと眺めましたが、そのときは一体これが何なのかよく分かりませんでした。
当時、映画やテレビなど時代劇でよく見ていた刀について、関心や興味はありましたが、刀に関する知識は、ほとんど持ち合わせていませんでした。
しかし、このとき初めて、刀のことを少し調べてみたら、何か面白いかもしれないと、強く感じました。
その後、とにかく独学で調査・研究する中で、その金具(目貫)が「四方手(しおで)」という馬具の一つであることが理解できました。
また、柄の上下に付いている金具が、「縁(ふち)」と「頭(かしら)」ということも分かりました。その縁と頭は、郷土の有名な金工「林又七」の作であることも知りました。
さらに、鞘の先についている金具が 、「鐺(こじり)」という金具であることも分かりました。
鐔を見ると、最初自分が想像していたものとは少し形が変わっていました。鐔の表側を裏の方へ折り返した椀の形をしたもので、これは「椀鐔」と呼ばれているようです。調べてみると、この形式の鐔はあまり流行らなかったようで、肥後の「甚五一派」以外では、「土屋安親」など一部の鐔工のみに見られるようです。
脇差を入手後しばらくして、日本美術刀剣保存協会(日刀保)の地方審査に出す機会があり、審査をお願いしたところ、研ぐことを条件に「小反り秀光」という認定書をいただきました。
刀を研究するうちに、これが備前国の著名刀工であることが分かりました。
脇差を研師の方の所へ持って行くと、「研ぎ代の他に白鞘代も必要」と説明される一方で、「刀を白鞘に入れたら「拵(こしらえ)」は不要なので、この拵を自分にくれるなら研ぎ代をタダにしても良い」とも言われました。
しかし、すでに関連する書籍などを少々購入して、刀装具の研究を始めたところなので、拵を渡さずに、研ぎ代を支払うことにしました。
研ぎ上がった脇差を見ると、長さは短いものの、大鋒の長巻直しであり、帽子は刃文も完全に残っていることが確認でき、刀身全体には「映り」がきれいに現れ、「匂口」も冴えていました。
その後、熊本の島田美術館で「細川家伝来の刀剣展」が開催された際、私の脇差とよく似た大鋒の長巻直しの脇差が、「細川忠興公の愛刀」として展示され、無銘ながら「備前国兼光」の作という説明がされていました。
私の脇差も、①備前国の著名刀工の作であること、②附属する鐔や縁・頭や鐺が肥後の有名金工の作品であること、③目貫か後藤家上代の作品であることから、かつては細川家の御殿様が腰に差しておられたものではないかと、想像を逞しくしております。
これらの脇差、鐔、縁、頭、鐺、目貫の他、鮫皮が貼られた柄木は、譲り受けた当時のままの状態で大事に保管しています。
なお、この刀装具類は、一括して拙著「刀と鐔の玉手箱」に詳しく掲載致しております。