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コリードの犬

 フロントガラスは緑一色だった。コナラやヤシの林を、型落ちのフォードが走る。木漏れ日に目を焼かれないよう、ホセはサングラスをかけ直した。
 車は西マドレ山脈中腹を過ぎていた。道と呼べるものはもう何キロも手前で途切れている。
 ラジオは流行りのラテン・トラップを垂れ流していた。
「やっぱり、あんな乳は見たことねぇよ」
 助手席のフリホールが笑いまじりに言う。
「その話はもういい」
「いいや、あれは規格外だ。タコス屋にしとくには惜しい」
 クリアカンでタコス屋に寄ってからずっとこの調子だった。フリホールは何度でも同じ話をする。昨日はヘビを潰した神父の話で、一昨日は路上でラリった男が犬に噛まれる話だった。
 その日、ホセは11度目のタコス屋の女の話を聞いていたが、それでもフリホールは話し足りないようだった。
「そうだ。彼女をジャケットにしてレーベルに売り込もう」
 名案だ、とばかりにフリホールはルーフを叩く。禿頭を激しく揺らす。
「だめだ」
 ホセはにべもなく却下した。
「なんでだよ」
「いいか。俺たちが聴かせるのは曲だ。ポルノを売るんじゃない」
「俺はマジメに言ってるんだぜ。レーベルの野郎なんざ、毎日せせこましく売上の勘定しかしてない。気を引くにはヴィジュアルが大事だ」
 ホセは呆れたように首を振る。自分の曲を売り出すために、妥協が必要なのは分かっている。それでも、他の力を借りるのは気が進まなかった。
 幼い頃から、ホセはナルココリード歌手になりたかった。カルテルの栄華を歌いあげる、彼らは輝いて見えた。
 近所の青年がナルココリード歌手になったのも大きかった。彼は村を出てメキシコシティへ行った。しばらくラジオでは毎日彼の曲がかかった。その度にホセ達は働く手を止め、聴いたものだ。DEAに屈しないエル・ブランコの勇姿が心を熱くした。
 やがて、ホセはギターを練習しはじめた。YouTubeを見ながら12本線を書いた木の板に指を必死に合わせた。
 16になり、本物のギターを持った。その頃からフリホールが加わった。ホセ相手の馬鹿話に飽きると、気まぐれに歌詞を書く。大抵それは、カラシニコフやコカインを称える言葉で溢れていた。
 馬鹿話以外では、今のように活動方針に口を出した。
 ホセがこうして山奥に車を走らせているのもフリホールの考えた活動方針の一環だった。
「とにかくあの女はいい広告塔になる。ギャラは〈資金づくり〉からで十分いける」
 相変わらず木々の葉がフロントガラスを叩く。
 もう〈資金づくり〉は5年も続けていた。仕事は簡単だった。クリアカンに届いた段ボール箱をフォードに積み込み、目印の場所に埋める。質問と詮索は一切しない。それだけでホセの父親の1週間分の稼ぎが入った。
 ホセは1年でこの仕事から足を洗うつもりだった。末端とはいえ、これが合法ではないと見当がついていた。さっさと金を貯めてレコーディング環境を整え、レーベルに自分の曲を売り込もう。そう考えていた。
 だが金が湧いて出るような経験は、二人の感覚を狂わせた。
 フリホールは1日に飲むビールが1本から5本になった。ホセは曲作りに専念すると言い、新しくアパートを借りた。右腕にはマリア像のタトゥーを入れた。機材は新しくならなかった。
「曲は出来たのか」と、フリホール。
「当てつけか? 昨日も働いているのは知ってるだろ。お前こそ歌詞は出来たのか?」
「俺も昨日は忙しかったんだ」
「どうせヘレナのところだろう」
 上がり切った生活水準を下げるのは容易ではなかった。

 2時間ほどすると、ラジオにノイズが混じりはじめた。電波が届かなくなるのは目的地まで近づいた証拠だ。
 ホセは赤いカラースプレーが幹にかけられたコナラを見つけると停車した。
「手早く終わらせて帰ろう」
「ああ」
 2人はポロシャツを脱いだ。汗まみれの服で帰るのはごめんだった。
 トランクからシャベルを取り出し、ホセは掘る場所に見当をつける。シャベルは深々と刺さった。数日前に雨が降ったのだろう。土を掘りあげると、蒸れた草の匂いが鼻腔を満たした。
 再び掘る。虫たちが住処を荒らされて慌てふためいた。ホセはそれを摘み出し、草むらへ投げる。虫の行方はすぐに分からなくなった。
 時折、ホセはこの瞬間に考えてしまう。
 今の人生は〈資金づくり〉が全てだ。もし、この虫みたいに突然仕事を失ったらどうする?
 決まっている。もちろん、音楽だ。それを糧に音楽をやるんだ。5年間のブランクなんて目じゃない。すぐに以前のように作れる。
 ホセは自分に言い聞かせる。もう一人の自分と目を合わせ、納得するまで話しかけた。
 大丈夫。今日も大丈夫だ。
 大地のもつ湿気は、蒸し風呂のようで不快だった。ホセはマリア像のいない腕で汗を拭う。
 フリホールを見やる。彼の額にも大粒の汗が浮いていた。
「なあ、どのくらい掘れた?」
 ホセが尋ねる。
「大体一箱分ってとこだ。そっちはどうだ」
「俺も同じくらいだ」
「あと2時間で終わらせよう」
「ああ」
「それからホセ、深く考えるなよ。掘った後に考えればいい」
「……」
 しばらくシャベルが土を削る音だけが響いた。
 一定のリズムで掘りつづける。二箱分の深さまで掘ったら移動する。大きな石に当たったときも同じように別の場所へ移動する。
 この時、ホセはなるべく木には近づかないようにしている。樹木の近くは根が張っていて掘りづらい。そのうえ、雨を受けない土質は硬いままだからだ。
 ホセが5年で学んだ技術の一つだ。

 ようやく15箱分の穴が出来上がった。
「少し休もう」
 荷下ろしの前の乾杯は恒例行事だ。
 フリホールがグローブボックスに入れておいた麦酒を取り出す。ライムが欲しいところだが、四の五の言わない。いま重要なのは喉を潤す液体が麦酒であるかどうかだけだ。
 ホセは栓を開き、飲みくだす。勢いよく麦の香りが流れ込む。疲労が嚥下のたびに散っていく。
「たまに俺は悪い夢を見る」
 ぽつりとフリホールが話しだした。
「お前がか?」
「ビニール袋を被せられた親父が出てくるんだ」
「袋を被っているのに誰だか分かるのか?」
「夢だと不思議と分かるんだ。俺はビニールを剥がそうとするけど出来ない。そのうちに親父は苦しみだす」
「お前はどうするんだ」
「どうにもならない。飛び起きて麦酒を飲んで眠る。次の日には」
 フリホールは盛大にげっぷをする。
「へっへへ」
「へへ」
 ホセも釣られて笑う。
「終わらせよう」
「だな」
 そう言って二人は瓶を空けた。

 フリホールがトランクを開け、段ボール箱を引き出す。ホセが箱を受け取る。ずっしりとした質量を腕で支え、ホセは遠くの穴から順に箱を埋めていく。
 いつものことながら、30箱を運び出すのは骨が折れた。運んでは屈んで穴に収める。太ももと腕の筋肉は張り、腰は鈍く痛む。
 15箱埋めたころには、ホセの浅黒い肌は汗みずくになった。
 すると、フリホールが残りの箱を埋めはじめる。二人の交代は互いのコンディションに合わせて自然と行われた。
 ホセが渡し、フリホールが埋める。遠くで鳴く鳥の声を背に淡々と進める。
 疲労は感じても単純作業はホセにとって心地よかった。この瞬間だけは、人生は止まっていてくれる。ナルココリードへの夢を脇に置いて目の前の荷物に集中していればいい。

 トランクの最後の箱を埋め、フリホールが雨よけのシートを穴に被せると作業は終わった。
 積荷下ろしは意外と時間がかからない。日光は来た時と変わらず照りつづけていた。
「今何時だ」
 ポロシャツを着ながらホセが尋ねる。
「まだ15時。クリアカンに戻ったらタコス屋に寄ってみよう」
「またその話か」
「俺たちのデビューを左右するかもしれないんだぞ」
「本気か」
「当たり前だろ」
 相変わらずの調子に、ホセは苦笑いした。
「腹も減ったし、寄るとしよう」
「そうでなくちゃ」
 二人はフォードに乗り込む。
 ホセがキーを回す。
 今日こそ帰ったらギターを持とう。もっと金を貯めてドラマーを引き入れてもいいかもしれない。そうすれば、音楽の幅も広がる。そうだ、そうしよう。今度こそレーベルに持ち込むんだ。
 だからもう少しだけ〈資金づくり〉を続けよう。大丈夫。きっとうまくいく。
「そういや、明日もクリアカンに10時だっけか?」
「明日は12時だ」
 ホセはアクセルを踏んだ。


【了】

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