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最も高名で最も曖昧な熱帯魚

 やった。遂にやっちまった。俺のバックパックは、組のカネではちきれんばかりだった。捕まったら良くて十分の九殺し。手足を詰められて野晒し。ゴアな目に遭うのは嫌だが、”魚屋”に辿り着かなければ、どのみち同じ結末だ。
 五度路地を曲がると、喧騒が遠ざかる。俺は一瞬、道を間違えたかと危惧したが、獅子舞に跨る女の落書きを見て安堵した。その先の店こそ探していた”魚屋”だからだ。
 名前は”Sellfish”。今はネオンが消え、ワガママになっていた。洒落にもならない場末の熱帯魚屋だ。
 ドアを開くと、墓掘りのがよっぽどマシに感じる腐敗臭が出迎える。俺はなるだけ息を止めて歩く。アロワナを通り過ぎ、レジ前に差し掛かったところで限界が来た。再び襲う臭気に、俺は堪らず咳き込む。

「用件は?」 くぐもった声がかかる。

「テトラ一匹。」

「品種は。」

「クロイゾネテトラ。」

 店主は顔の新聞をどけると、うんざりしたように見た。俺はバックパックから札束を出す。店主はそれをひったくると緩慢な動きで、台帳を開いた。

「悪いが昨日ハけちまった。」

「アホ抜かせ」俺は札束を取り出す。

「孫のお年玉だってもっと多いぜ。」店主が鼻を鳴らす。「買う気が無いなら失せな。」

 札束をもう一掴み出す、そしてもう一掴み。結局、俺はバックパックごと投げ渡した。

「ああ、思い出したよ。」店主は漸く奥に消えると、手錠をかけた老人を連れてきた。干し柿のように縮んだ皮膚、鯰じみた髭、黄ばんだ白シャツが汚らしい。マジなのか?マジでこいつがあの果心居士?

 その時だった。店先にエンジン音が響くと、代紋付きのフルフェイスの追手がドアを蹴破ってきた。

 「使用期間は三日だ。」店主は注射器を取り出すと、手早く老人の脊椎に突き立てる。青い液体を頸筋に取り込むと、濁った眼は生気を取り戻した。

「其の方の望みは。」

「妹を探してる。それ以外は殺していい。」俺は答える。

 横で水槽をカチ割る音が聞こえた。

 
【続く】

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