46~50 全公開まとめ記事 カタカムナ文献 考古物理学 相似象学~カタカムナが解き明かす 時間空間の粒子性 万物はタマである


46.カタカムナ文献 考古物理学 相似象学
47.カタカムナ文字 造語法の抽象力 客観背後を感じる感受性
48.宇宙の神羅万象は一切が球 直感力と抽象力 日本語の特殊性
49.カタカムナが解き明かす万物球の抽象力 カタカムナ人の直感
50.カタカムナが解き明かす 時間空間の粒子性 万物はタマである


46.カタカムナ文献 考古物理学 相似象学


カタカムナ文献、考古物理学と相似象学におけるそれぞれの違いについて書いていきます。

カタカムナ文献は楢崎皐月が、まだ戦後の混乱期の昭和24年初頭、兵庫県六甲山系の金鳥山の頂上ある俗称狐塚(芦屋道満の墓)の辺りにてであった平十字により、カタカムナ神社の御神体として伝えられた巻物の解釈によるものです。

楢崎は満州にいた頃、中国の老子教の道士の間に老子の言葉として「日本の超古代に、アジア族が存在し、八鏡文字を使い、特殊の鉄を作り、高度な人文明を持っていたこれが神農民によって伝えられて、中国の文化の元になった」と密かに伝承されていることを蘆有 三さん老師より直接聞いていたので、その時巻物の内容は全く不明ながら、それがら蘆有三老師の八鏡文字ではないかという好奇心からノートに書写し、その後二十四年をその解読と内容の追体験に従事したのです。

なお、文献内容の解説に専ら従事していますが、巻物の年代アジア と芦屋の地名の関連カタカムナ神を祀る平家、食家などなどについて公的に追求されることが望ましいと語っています。

なお、楢崎皐月が長年にわたって神経を注いだカタカムナの研究は、宇野多美恵女史の相似象学を唯一の伝承者として書き残したものが正当であるという考えが楢崎皐月の最終的意思でもあったのです。

さてここで考古物理学と相似象学の関係及び、従来の神話の研究との違いについて考えてみようと思います。

考古とは、過去の遺跡や遺物によって過去の物事を研究することです。

楢崎の考古物理学とは神話、その他における神名、国名、上古代語を対象にして、数理学的にまた自然理学的に考察し、それによる新しい歴史の解析を目的とした学です。

新たな出土品や物的証拠を基礎にしたものではありません。古事記などに記されている神々の名前、上古代語は間違いなくなによりも確かな我が国の超古代の遺物である。

ところが、従来の古事記に関する研究は、単に神話の筋を追う程度で、いわば今日まで、関心は皇統譜として、政治的目的に整合させた物語として扱われてきました。

その故に、かなりの調節や誇張もあり、空虚なものもあったから近代の学者からそんなものは歴史学ではないと学問扱いされず、古事記などをひっくるめて無視されることになったのです。

確かに、従来の神話の研究は歴史学ではなかった。

それは政治目的に密着した神秘的宗教的解釈が主であった。

しかしながら、古い神話物語を伝え持つ民族であるなら、その神話の意味を正しく解明することによって、従来の先入観にまったくとらわれない、物理的解読法によって、新たな歴史解析を考察出来るのです。

その根拠がカタカムナの文献にあり、それにより従来の記紀や、カムナガラノミチなどの解釈の内容の取捨も可能となり、ある目的のためにマッチさせていた従来の学の偽りの化けの皮のようなものは剥がれ、その中に潜む真実像を描き出すことができるようになったのです。

なお、相似象学との関係については、相似象学は考古物理学の研究によるカタカムナ人の、直感物理に基づいて発した学です。

相似象学は、考古物理学の みならず、現代理学や社会事象や人間の精神の問題などを含め、広く天然自然宇宙の諸現象に通じる根本原理を学ぶものであり、それらのあらゆる、神羅万象に相似る形が存在することを見つけて謎を解くことになるのです。

この考えを掘り下げていく事により偉大なる発明が為される可能性が出てきたのです。


47.カタカムナ文字 造語法の抽象力 客観背後を感じる感受性



我が国超古代人が、自分たちの直感内容カタカムナと呼称したことについて書いていきます。

まず、カタカムナと言う名称の意味から説明します。

その驚異的な意味が 分かるからです。

カタとは、片方のカタであり、つまり我々の見ている宇宙が世界の全てではなく、それは片方であるという意味を指す表現です。

カムとは形なく目に見えないことという意味の表明です。

そしてカムの名は、旦那の名のごとき一念であり、その代表する存在とカタ以外に潜在する支配を表す静音でもあります。

現代の理学的な用語を表せば、カタカムナとは現象界を支配するところの、客観的背後の現象背後の基礎物理量ということになります。

要するにそれは全ての現象事象の根源にある始元の量に関する直感であって、目に見えないから客観の対象とはならず、顕微鏡的に実証するわけにもいかないが、それは確かに存在する物理量であることを感じていたのです。

そして、彼らの体覚となって、予知機能を健全に保ち、彼らに言わせてみれば、片方にしか過ぎない現象面のみを対象とする現代の自然科学の実証物理とは異なるところの現象ならびに客観背後に通じる天然科学とも言うべき直感物理なのです。

もとより現在のような、民族語として複雑に発展してしまった時点では、原初の姿を求むべくもないのですが、およそ世界の原始民族は、仲間同士や部族間の意思の流通には、個々の単一の音だけで伝達がなされていたようです。

また何らかの象(カタチ)を符号として文字の役割に使っていた民族もあったようです。

それはちょうど赤穂浪士の討ち入りの際の暗号の山と川とか、コウモリ達やイルカ達ににている形同士の超音波通信的意味を持っており、我々の祖先の上古代人の場合も同様であったが、彼らの中には特別に知性の高い部族があって、日本民族の形成の初期において、天然自然の統一原理を悟り、その理に基づいて人間の声音を四十八音に分け、この声音に伴う基底の思念の表現をまとめたのです。

つまり、アとかイとかウとかマとか、この声音の基底に持つ意味を極めていったのです。

その点、カタカムナ人はカタカムナの物理図象を分解し、四十八個の音声音譜として割り当てそれぞれの基底思念をおいて、さらにその二個または三個づつの組み合わせで、言葉をつづり、その意味を規定していたのです。コトワリとは、事を和する理の意味で有って、三つの意味があります。

自然の理、天然の理のような科学的な物理という意味であるとともに、言葉を作る上の原理(ことわり)にも、また人間関係における原理にも通じるものなのです。

言葉というものはもとより、自然発生的なもので、どの民族においてもおのずから、理にかなった形づくられるものですが、その発展の初期において高度の知性によって物事の本質本性を悟り、本能に任せる以上の合理性を持つコトワリに基づいて方向づけられ、意味づけがなされたという例は世界のどの民族にも類がなかったと思われます。

現在私たちは使用する日本語の意味の謎は、ここまで追及されなければ解決しないし、またこのナゾを解いてみると、日本語の持つ意味の深さ、巧みさに感嘆せずにはいられないのです。

彼らの造語法は、まず一音一音四十八個の声音譜の作り方に実に無理がなく、しかも混乱しないように工夫がなされているので、私達であっても二,三回書いてみるとひとりでに覚えてしまう。

二個又は 三個の音の組み合わせによる言葉の意味の規定の仕方も、なお誠に自然な感情に沿ってなされているので、図象を見れればその意味が相似的に理解することができ、それは単なる文字の記述では到底期待されない効果があります。

面白い事に、外国人の言葉であってもそれが心の底からほとばしった深い意味を持つオンであれば、そこをこの図表に当てはめてみると、その外国語に全くなじみのないものでもその内容を感知することができる場合があるのは不思議なことです。

ただここでひとつ大きな問題になるのは、このような図象符の意味を正当に感受するには、互いに同等の直感力を持つ人々の間においてであるということです。

直感力の劣化した後代人は、不自由な文字によって意味を伝達し合うしかなくなってしまい、カタカムナの図象を見てもそれが言葉であるかどうかさえ分からなくなってしまいました。

今そうした人々に、カタカムナ文献の内容を説明するとなると、彼らの一言は何十倍の文章をもってしても足りないという有様になっています。

私たちはできるだけ彼らの真意を正しく伝えるために、なるべく曖昧な文学的表現を避け、やむなくまだしも近代的に意味を規定している科学用語を必要最小限に借りることになるのですが、そのために難しいという印象を持たれるとしたら、誠に残念なことです。

高度の内容もいかようにも優しく言い表せるものであるという、カタカムナ人の教えを真似して、表現にはもったいを付けず、難解な哲学用語の類を極力排して、祖先伝来の和語を生かすように努めていくつもりですと相似象学会誌の中に宇野女史は書き残されています。


48.宇宙の神羅万象は一切が球 直感力と抽象力 日本語の特殊性


我が国上古代に住んでいたカタカムナ人の抽象特性について書いていきます。

結論から先に言えば、カタカムナ人が万象の複雑多機の姿から、共通する象(カタチ)として、描き出したものは球(タマ)ということになります。

カタカムナ人は天然宇宙の関連を直感によって悟り、その姿を数々の表彰物に託して表現していますが、その中に、八坂の勾玉(ヤサカノマガタマ)並びにイホツノミスマルノタマという七種類の単玉と、十一種類の双玉があり、その意味は非常に抽象特性がよく示されています。

さとりを円形の図象で表現したヤタノカガミ、すなわちカタカムナ図象やフトタマノミミコトと言われるフトマニニの図象球(タマ)の旋転(マワリテ)並びに、循環(メグル)の姿を現しています。

このように一切を球(タマ)として感じていた上古代人は、時間空間の先天性を悟り、さらにその時間空間量を統合した者が「マ」であり、その「マ」とか「マ」から別れた「マリ」において、時空が互換重合している状態が今日の時間空間量と言われるものの基本性であるということを悟ったのです。

このことから「マ」や「マリ」おいて、球心部で重合し、球の対応面において旋転に伴って時間量と空間量に交換分離する相を直感していたのです。

「マ」は一切の物象の始元量であり、あらゆる物資の始まりであるという見方から「マ」を通常「アマ」と言っています。

そして「マ」から別れた、微分量のマリをアマに対してアメと言い、またアメは微粒の思念を伴っています。

そして「コロ」とか「ココロ」という言葉も、粒や微粒の状態を表現していると宣言しているのです。

そしてもう一つ、日本語のでき方の特殊性についてもお話ししたいと思います。

物事のありのままの姿は、決して単独で存在することはなく、互換重合状態であるのに我々の言葉というものは、とかく現象の一つ一つを部分的に捉えるか、一面的に表すしかなく、総合と いってもそれは一方的なのです。

それはあえてありのままに表現しようとすると、本人は確かに厳密に表したつもりであっても、どうしても文学的な曖昧などうとでも誤解の余地のある言い方になってしまうのです。

用語が足りないのです。

現在の言葉で 物事の真相を表わそうとすること自体に無理があり、いかに工夫しても限界があり、言葉にはグループの人々の共通の感受性の必要がありますから、自分の気持ちだけで話しても通用しないということが起こるのです。

また物理用語には、近似的に正確に言葉の内容を規定して行きますが、それも科学的検証面に限られていて一方的なのです。

言葉について苦労したことがある者なら、カタカムナの図象符に出会って舌を巻くほど驚愕する思いがあるでしょう。

例えば、タマならタマ、サトリならサトリという、言葉のオンを、この図象に当てはめれば、その言葉の持つ意味やそれぞれの方向性、状態、ムードなどが、その物理図象の持つ基本の意味にそうて、多重的にしかも端的に証明できるもので、もしそれを現代の文字言葉に翻訳するとなると、不可能とは言わぬまでも何倍何十倍の量を連ねてなお不満足だろうと思われます。

そもそも人類という唇を持つ哺乳動物の発する音については、おのずからどの民族にも共通のものがあり、おそらく原初の人類にはそれらにほぼ共通の意味があったに違いないと思われます。


49.カタカムナが解き明かす 万物球の抽象力 カタカムナ人の直感

万物万象に共通する形をカタカムナ人はどのように抽象していたかについて書いていきます。

カタカムナ人は万物万象に共通する形を抽象して、球(タマ)把握しました。カタカムナ神の直観は実にすばらしいものです。

誠に(タマ)球形とは、もの(保安自衛)の形です。

原子も、電子も、細胞も、そして種子も、卵も、また地球も、太陽も、皆「球」の相似象です。

形なく広がっている水もひとたび熱い鉄板上に落とされ、蒸発崩壊の危険に瀕すると、セツナにクルクルと小さな球形となって自転(マワリ)しながら、公転(メグリ)を始めます。

人間の身体を構成する細胞も、血球も球形であるが一件球形とは見えない、人間の姿も著しい寒さや風雨にさらされると、膝を曲げ背を丸めて球形となって身を守る「どうして万 象の形を抽象して球(タマ)としたのか?」「どうして球(タマ)が回るのか」と言われれば球形が「最も恒久的にな安全を保とうとするカタチ」で あるから球形になろうとする性質は全てのものがアマから受け継いでいるもので、それがすなわちアマの性質でありイノチの元になるというわけです。

これが人間の側から言えば、本能と呼ばれるものと なっていき、また宗教でいえば、この雨の性質が「神の恵み」や 「仏の慈悲」と感じられるのです。

アマはアマの本来性として、、、アマ から生まれたスベテのモノを守りアマの微粒子すなわち アマウツシ を 与え続けるからです。

アマ、マリの物性として述べる諸性質(粒子性 凝集性、タバネタチ、カサナリタチ、マトマリタチなど)要するにタマのたち(結球性)から移行するものです。

わかりやすく言えば アマはいつも均質に在るのではなく、マのカタヨリがあり そこから正反のマワリとメグリの動きが生まれて、マは結球してマリとなり、次第に重なって濃密になり、ココロとなって生命質の細胞や物質の原子の中に入っています。

ココロはアメの微粒子であり、常にアマに通っています。

つまりココロは人間のみならず動物にも植物にもあり、石にも水にもある 「ココロ が通う」ということは 言葉のアヤではなく、本当にアメの微粒子イカツ 男電気アワ女電気などが通っているとカタカムナ人は感じたのです。

このことは、他の多くの古代神にあるような観念の空想でも神秘思想でもなくタシカニ、アルガママの真相を鋭敏な感覚によって悟ったものに違いありません。

彼らがアマノウズメか(渦流)から天体や仏性が凝縮生成され、さらに自由に転換する物理を、イキイキと叙述しているその直感内容は今日の天体望遠鏡などの観測による宇宙の天体星雲の様子や、原子転換の事実によって上書きされ、またモロコシマの流腺態とウズメクソの排出が宇宙腺の霧函の写像に驚くほど相似して見えるとか、また現に彼らがイカツの正反すなわちサヌキ電気アワ電気と言っているものは、今日の 電気物理によって電子と正孔であることが証明されています。

などなどの例からも彼らの直観性能の驚くべきものである事が解ったのです。


50.カタカムナが解き明かす 時間空間の粒子性 万物はタマである


カタカムナ人が時間と空間についてどのように考えていたかについて書いていきます。

さて、現代の一般の人々は、時間空間は無限遠の広がりを持つとして考えていますが、さすがにニュートンは、球体感覚を持っていました。(電気粒子とは言っていないですが、熱や光を粒子として捉えていた) 今でも多くの人は、宇宙は無限だと、漫然と思っていますが、「宇宙は球状だ」と言い出したのはアインシュタインです。

そしてそれを確かめたのが、天体望遠鏡の発達です。

古来優れた科学者には直観がありました。

現代物理においてもこのような球状感覚や、時間空間の概念や「粒子性波動性の重畳理論」などは、いずれも直感で見つかりました。

そうした優れた学者の直観によって、科学は進歩したと言えるので、直観が科学的ではないはずはありません。

問題はそれを裏付ける理のない内容のあり方です。

ところで、「カタカムナ人の直観では、万象において粒子性(タマ)として捉え、トキトコロも互換重合の粒子性で捉えていました」と言われても、空間の粒子性は現代人にも一応考えられますが、時間の粒子性はなかなか理解できません。

時間とは「過去から未来へ直進するもの」という時計概念のみが抜き難く固定されているからです。

また、光が 「粒子性であると同時に波動性」でもあるということも、最近いたるまでは分かりませんでした。

このような現代物理でも未解決の問題にまで、カタカムナ人は実に見事に扱っていたのです。

ここで少々カタカムナ人の時間のとらえ方を説明しましょう。

一般に現代人は、時間というものは観念的なもので、物質(モノ)として捉えられるとは考えていませんが、カタカムナ人が「トキを時間空間的な波動周期性と感じるとともに、粒子として捉え、マにおいては時間空間が重合していると感じていたと言われても、見当がつきません。

しかしながら、現在人も例えば「今」という瞬間で時間が微分されていることは分かります。

この微分されたものをカタカムナ人は、時間 空間の粒子(マリ)として扱ったのです。

先に「現代人も空間の粒子性は一応考えられると言いました」が現代人の概念の「空間」とは一般に何もない空とか、空気のような捉えられないものを思い描いています。

しかし、カタカムナ人の空間とは、そのような漫然とした観念的なものではなく、「マの蜜充真状態」として捉え、またその空間を占めるモノ、すなわち生命質系であれ、物質系であれ、そこに位置を占める存在物をも、空間の存在位置として捉えていたのです。

したがって時が微分されて、「今」になると同時に、空間も微分すると今となるし、時間空間の微分(コマカイモノ)が「今」であり、今は マ の微分でありそのようなトキトコロの重合互換状態(カサナリカエシ)の マ が蜜に充漫されている状態を アマ と見たわけです。

カタカムナ人にとって、時間空間とは「観念上の二つの元」などではなく、刻々にアマと自分たちの存在に関わり合う微粒子(マリ)と感受されていたのです。

「今」というものは時間的に何秒で、空間的に何グラムというような、測量出来るものではありません。

しかし、単なる観念ではなく、確かに「今」という存在は、誰にも実感できる現象に違いありません。

そのようなものは、直観で捉えるしかないのです。

したがって、それをトキ、トコロ(時間空間)の微分されたマリとして感じたカタカナ人の直観は、非常にまともと言うべきです。

実は、現代人には彼らのような時の概念がないのです。

時間の集積されて時計時間つまり時の経過しかわからない。

しかし経過だけが時間ではない。

「時間とは何か」と言う時間の本質は分かっていないのです。

カタカムナ人はそれをマリという粒子として捉え、生命になったり、物質になったりして、空間と互換しているものと把握していました。

すなわち位置とは、時間的位置(時点)もあれば、空間的(地点)もある。位置を占めて(在位置)は時間空間占めていることである。

つまり地点を占めているというモノは(生命質も物質も)トキトコロを持 つということで、つまり(個々性の空間というものがある)いうことです。

一般に、時間とは個々性と関係なく存在する時計時間しか考えないが、物質を構成する間というもの、生命質を構成する時間というものは、みな微分されたマリの変形したものであり、空間が変形するように時間も変形するもので、時間も空間も変形して粒子に変わるものだとカタカムナ人は直感していたのです。

現代人はそのような変化は考えず、時間といえばどこまでも「時計概念」しかアタマに浮かびません。

カタカムナ人は、位置そのもの、在位置のもの全て、時間空間のマリ(粒子)で見ています。

「時間(トキ)」という概念のない現代人に時間を「空間(物質や生命質など)と互換 しうる粒子(マリ」)と把握したカタカナ人の直観を伝えることは難しいのです。

しかし現代人も、位置とか今とかいう概念で時間の位置、時間の今や空間の位置、空間のの今という概念は持っています。

とすれば、茶碗なり机なりというものがあってそこに位置を占めて存在している人間も同様に、生きているということはすなわち「空間と時間の位置を占めている」ということであり、その時間空間の持続、すなわち時間的位置と空間的位置の持続がイのチすなわちイノチであるという、カタカムナ人の捉え方は頷けるはずです。

カタカムナ人の直感物理は、現代人の固定観念を反省する上に、大いに参考になるのではないかとカタカムナ人は、アマ、マリ、ココロから物質生命の基礎粒子(カブシヌ、ウキフヌなどの構成粒子のことで、現在理学の電子、陰子、陽子、中性子などに あたるもの) への変遷を感じていますが、現代理学では物質の基礎粒子としては素粒子しか考えず、生命の方は扱っていません。

始元量はもとより、電気素量さえも扱えない、そういうものが抜けていきなり素粒子がスタートするのです。

そして、元を時間と空間とにおいているがそれらの概念にはカタカムナの直感物理のような、マトマリはないのです。

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