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神奈川の虚無僧寺『探墓行』其の三☆大福寺

鈴法寺系の歴代住職が眠るお墓があるのが大福寺。


神宮寺から歩いてほど近いところに大福寺はあります。
前回の記事はこちら↓



大福寺、名前からして、良いことありそうな、美味しそうなお寺だな。
またどうでもいいことを知りたくなった…。


大福餅の由来は...

大福は、丸くふっくらした形がウズラに似ていることから、古くは「鶉餅(うずらもち)」と呼ばれており、ウズラの腹がふくれていること、また大きくて腹持ちが良いことことから、「腹太餅(はらぶともち)」とも呼ばれるようになった。
「鶉餅」や「腹太餅」と呼ばれていた当時の大福は大きく、餡は小豆に塩を入れただけであったといわれる。
餡に砂糖を加え、小さくした腹太餅が作られたのは、明和8年(1771年)、江戸小石川箪笥町のおたよ(「お玉」とも言われる)という後家の考案によるもので、この腹太餅を「大腹餅(だいふくもち)」という名前で売った。
のちに、「大腹餅」の「腹」の字は佳字の「福」に書き換えられ、「大福餅」となった。

とのことで、ふくふくに書き換えられたんですね。

出典 https://gogen-yurai.jp/daifuku/



こちらの大福寺は1600年代に創建なので、むかーしむかし、大福好きな和尚がおりました…というような話ではなさそうです。残念(笑)



正式名称は、田広山最勝院大福寺。浄土宗。芝増上寺末。


創建は、伊勢原の町が開かれた頃と同じ元和六年(1620年)といわれ、その頃植えられた楠木は、神奈川県の天然記念物に指定されている。神宮寺から150m離れたこの寺に、神宮寺の歴代和尚の墓があるのは、大正十二年(1923)関東大震災によって、神社境内が崩れ、散乱した墓が大福寺に移されたようである、とのこと。

神田可遊氏の説明によると、本来なら、神宮寺の菩提寺の普済寺に移すべきだが、より近い大福寺に移されたとのこと。


大福寺の基本情報は、寺社案内・猫の足あとさんのHPに詳しくあります。
https://tesshow.jp/kanagawa/isehara/temple_isehara_daifuku.html




ここから大福寺。



かつてはもっと目立っていたであろう楠木が見えます。



山門。


崩れかかっており、門には立ち入り禁止。現在住職不在のお寺になっているそうです。



天然記念物の楠木の巨木。

大釋真佐俊氏撮影。


いつも写真を共有して下さる大釋氏に感謝🙏




最近、境内の大きな木が倒れてしまい薬師堂の屋根は壊れたままのようです。

大釋真佐俊氏撮影。




歴代和尚の墓の前で献笛。





歴代和尚の墓


大釋真佐俊氏撮影。




右の墓石から。 


 寛政八丙辰歳
當寺前住七世鈴法二十六世空山祖来和尚禅師
  六月廿三日

神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』
 

空山祖来

寛政八年(1796)六月廿三日示寂。
神宮寺の七世で、鈴法寺二十六世。他の記録では鈴法寺二十七世。
高橋空山著『普化宗小史』によると、「彼の描いた普化禅師の画像を、故宮川如山氏が持っていた。この空山の代鑑司(看主の代わり)の祖境が作った十七代から廿三代までの位牌は、青梅市新町の東禅寺にあった。」と書いてあります。
神田可遊氏によると、祖境という人は不明ですが、こういう位牌はあったよう。ただし現在は東禅寺にはない。普化禅師の画像も不明とのこと。




 明和六巳丑年
前鈴法嘯山勇虎和尚墓
  十月初九日

神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』
 

嘯山勇虎

明和六年(1769)十月九日示寂。鈴法寺二十六世。
神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』によると、当寺隠居となっており、◯世という代は無いようです。
1760年代頃に、伊勢原普済寺二十三世をつとめる。

初代琴古に「伊豆鈴慕」「葦草鈴慕」を伝えたことで有名。




一番古い墓碑。

 享保八歳
寂當寺五世中興了道空覚上座品位
  三月十六日

神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』

了道空覚 

中興開山五世。享保八年(1723)三月十六日示寂。 
正徳二年(1712)六月に寺院再築する。




 文政十(丁亥)年
鈴法二十七世竹渓嘯虎和尚墓
  七月(三日)

神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』


竹渓嘯虎
 

文政十年(1827)七月三日示寂。
神奈川県伊勢原市にあった鈴法寺末寺の神宮寺で亡くなる。彼の代に作った「武叢禅林」と書いた長さ六尺で巾三尺六寸の額が、青梅市霞の師岡の妙光院に残っていたが、今は新町の東禅寺に移したとのことである。




私は、虚無僧寺の和尚たちのお墓がこのように残っていることにとても感動しました。しかも1600年代後半頃には生まれ、1700年代はじめの頃に神宮寺の寺院再築をしたという了道空覚和尚の墓がある。これは古いです。
今まで、鈴法寺跡の虚無僧の墓も見てきましたが、あまり実感が沸かなかったのが、高橋空山著『普化宗小史』や、神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』など地道に遺跡を調べたであろう先人たちの記録によって、虚無僧寺の存在が自分の中でようやく明らかになってきた。
確かに、亡くなった人がいて、それを葬った人がいて、その人の墓を守ってきた人が300年も前からいるのだ。
これは、軽々しく自称コムジョなどと言っていて良いのか?!と思えるほどの、重たい歴史だ。

そしてなによりも、近くに住んで墓守をしてくださっている西向寺奉賛会の会長、渡邉照洞氏や奉賛会の皆さんにも感謝。引率してくださった神田可遊氏にも感謝。探墓行の企画をしてくださって同行してくださった有志の皆さまにも大感謝である。


この虚無僧さんたちのお墓が、今後も何百年と残るのだろうかと、一抹の不安がよぎりつつ、私が生きている限りはここのお墓参りも再びやって来るぞと誓うのでした。


参考文献
高橋空山著『普化宗小史』
神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』

協力
尺八研究家・神田可遊氏

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