神奈川の虚無僧寺『探墓行』其の三☆大福寺
鈴法寺系の歴代住職が眠るお墓があるのが大福寺。
神宮寺から歩いてほど近いところに大福寺はあります。
前回の記事はこちら↓
大福寺、名前からして、良いことありそうな、美味しそうなお寺だな。
またどうでもいいことを知りたくなった…。
大福餅の由来は...
とのことで、腹が福に書き換えられたんですね。
出典 https://gogen-yurai.jp/daifuku/
こちらの大福寺は1600年代に創建なので、むかーしむかし、大福好きな和尚がおりました…というような話ではなさそうです。残念(笑)
正式名称は、田広山最勝院大福寺。浄土宗。芝増上寺末。
創建は、伊勢原の町が開かれた頃と同じ元和六年(1620年)といわれ、その頃植えられた楠木は、神奈川県の天然記念物に指定されている。神宮寺から150m離れたこの寺に、神宮寺の歴代和尚の墓があるのは、大正十二年(1923)関東大震災によって、神社境内が崩れ、散乱した墓が大福寺に移されたようである、とのこと。
神田可遊氏の説明によると、本来なら、神宮寺の菩提寺の普済寺に移すべきだが、より近い大福寺に移されたとのこと。
大福寺の基本情報は、寺社案内・猫の足あとさんのHPに詳しくあります。
https://tesshow.jp/kanagawa/isehara/temple_isehara_daifuku.html
ここから大福寺。
かつてはもっと目立っていたであろう楠木が見えます。
山門。
崩れかかっており、門には立ち入り禁止。現在住職不在のお寺になっているそうです。
天然記念物の楠木の巨木。
いつも写真を共有して下さる大釋氏に感謝🙏
最近、境内の大きな木が倒れてしまい薬師堂の屋根は壊れたままのようです。
歴代和尚の墓の前で献笛。
歴代和尚の墓
右の墓石から。
空山祖来
寛政八年(1796)六月廿三日示寂。
神宮寺の七世で、鈴法寺二十六世。他の記録では鈴法寺二十七世。
高橋空山著『普化宗小史』によると、「彼の描いた普化禅師の画像を、故宮川如山氏が持っていた。この空山の代鑑司(看主の代わり)の祖境が作った十七代から廿三代までの位牌は、青梅市新町の東禅寺にあった。」と書いてあります。
神田可遊氏によると、祖境という人は不明ですが、こういう位牌はあったよう。ただし現在は東禅寺にはない。普化禅師の画像も不明とのこと。
嘯山勇虎
明和六年(1769)十月九日示寂。鈴法寺二十六世。
神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』によると、当寺隠居となっており、◯世という代は無いようです。
1760年代頃に、伊勢原普済寺二十三世をつとめる。
初代琴古に「伊豆鈴慕」「葦草鈴慕」を伝えたことで有名。
了道空覚
中興開山五世。享保八年(1723)三月十六日示寂。
正徳二年(1712)六月に寺院再築する。
竹渓嘯虎
文政十年(1827)七月三日示寂。
神奈川県伊勢原市にあった鈴法寺末寺の神宮寺で亡くなる。彼の代に作った「武叢禅林」と書いた長さ六尺で巾三尺六寸の額が、青梅市霞の師岡の妙光院に残っていたが、今は新町の東禅寺に移したとのことである。
私は、虚無僧寺の和尚たちのお墓がこのように残っていることにとても感動しました。しかも1600年代後半頃には生まれ、1700年代はじめの頃に神宮寺の寺院再築をしたという了道空覚和尚の墓がある。これは古いです。
今まで、鈴法寺跡の虚無僧の墓も見てきましたが、あまり実感が沸かなかったのが、高橋空山著『普化宗小史』や、神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』など地道に遺跡を調べたであろう先人たちの記録によって、虚無僧寺の存在が自分の中でようやく明らかになってきた。
確かに、亡くなった人がいて、それを葬った人がいて、その人の墓を守ってきた人が300年も前からいるのだ。
これは、軽々しく自称コムジョなどと言っていて良いのか?!と思えるほどの、重たい歴史だ。
そしてなによりも、近くに住んで墓守をしてくださっている西向寺奉賛会の会長、渡邉照洞氏や奉賛会の皆さんにも感謝。引率してくださった神田可遊氏にも感謝。探墓行の企画をしてくださって同行してくださった有志の皆さまにも大感謝である。
この虚無僧さんたちのお墓が、今後も何百年と残るのだろうかと、一抹の不安がよぎりつつ、私が生きている限りはここのお墓参りも再びやって来るぞと誓うのでした。