マガジンのカバー画像

コムジョの尺八歴史探訪📖

81
尺八の歴史をマニアックに探究中✐ 虚無僧の実態を探ります!
運営しているクリエイター

#尺八の歴史

絵画に見る虚無僧風俗の変貌★江戸時代初期篇

虚無僧というと思い浮かぶのが、天蓋(深編笠)を被って、手甲に高下駄。 こちらは辞書にあった虚無僧のイラスト。(故藤川師所蔵) こちらは歌舞伎役者の浮世絵。 派手な衣装に超太い丸ぐけ帯。絡子も大きいです。 江戸末期虚無僧スタイルのイメージというとこんな感じ。 さらには、 1700年代の伊達虚無僧の浮世絵はこちら↓ 1600年代はまたちょっと違います。 今回は江戸時代初期の虚無僧の風俗の変貌を追っていきたいと思います。 では、 まずは1600年代始め頃と思われる、

「明暗對山派」の曲はどこからやってきたのか。

「明暗對山派」シリーズ其の三です。 前回、前々回と樋口對山の略歴、明暗對山派の由来、明暗真法流について探求しました。 今回は、對山派の曲を整理したいと思います。 樋口對山の伝承曲は32曲。 兼友西園、東京の琴古流、九州の博多一朝軒などから曲を整譜しまとめました。 <西園流> 兼友西園ほかからの伝承 〈琴古流〉 主に荒木古童より伝承 滝川中和伝 九州地方の伝曲 主に一朝軒関係者より伝承であろう 東北地方の伝曲 伝承不明 〈解説〉 明治27〜8年、對

明暗對山派さらに深掘り☆對山はどうして明暗三十五世になれたのか。

古典本曲といわれる曲のなかでも、明暗對山派の流れはとても多いのではないかと思いますが、對山本人のことはあまり知られていない気がします。 前回は、西園流の開祖、兼友西園と、名古屋の鈴木治助、後の樋口對山について調べました。 對山は、名古屋から京都にやってきて明暗教会のトップになり、さらに三十五世まで継ぐことが出来たのは一体何故か? さらに深堀りしていきたいと思います。 では、 幕末の頃、京都明暗寺はどうなっていたのか 明暗寺住職 その頃、明暗寺には、 渡邉鶴山、

對山派って何ですか?

そんな質問が古典尺八楽愛好会の参加者の方からありました。 明暗流には二派あって、その一つが對山派であり自分たちが吹いている曲はその對山派なのだ。 もう一方は、もともとあった旧明暗寺系で、明暗真法流と呼称されている。 ところで何故そんなことになっちゃったの? 名古屋の樋口對山がいきなり京都に行って、明暗流を継ぐことができたの? 今まであった京都の明暗寺系とは喧嘩にならなかったの? と、そんな細かい疑問も沸いてきた。 まずは、 分りやすくルーツを書いてみました。

尺八空白の100年間に何があったのか!?

鎌倉時代(1200年代半ば)から室町時代(1300年代半ば)にかけてのいわゆる中世 に尺八という楽器のことが記された史料が無いのだそうだ。 前回の世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書『世子六十以後申楽談儀』も1400年代に書かれています。それ以前の鎌倉時代に書かれた「教訓抄」(きょうくんしょう)(1233成立)には「今は目闇法師・猿楽之を吹く」とある。 【教訓抄】とは、 詳しくはこちら↓ まずは、尺八研究家の本に記載された文章を抜粋すると… 山口正義著 『尺八史概説』(

古代尺八のその後☆猿楽篇📖 『世子六十以後申楽談儀』

正倉院にある尺八は、 節が三本あり、前に五つ、後ろに一つの計六孔。 古代尺八、もしくは雅楽尺八と称されている。 その頃の尺八は、盛唐期の宴饗楽・讌楽用の楽器の一つとして我が国に伝えられ、これによって吹奏された音楽は当時の中国音楽・唐楽であり、其の演奏者は大陸からの渡来人や帰化人とその系統の楽人であった。 大陸から遠路はるばる日本にやってきて演奏していたということだ。 古代尺八は、前に投稿した紫式部の『源氏物語』にも登場します。 そして、伝えられた唐楽は仏教や外来文化を

文学と尺八☆『源氏物語』

尺八の日本到来は西暦600年頃。 唐代の宮廷の燕饗楽で使われたという楽器が雅楽として日本に伝わった。 本来尺八はそれぞれが十二律の各々に応ずるように作られた十二本一組の縦笛でありました。 絵画に描かれた古代尺八は、古くは平安時代の舞楽、雑楽、散楽などの様子が描かれた巻物である『信西古楽図』があります。 そして平安時代の文学と言えば、かの有名な『源氏物語』。 その『源氏物語』に、古代尺八が登場します。 さて、どのように物語に登場するのか、 まずは『源氏物語』ざっと

博物館の尺八を見に行く。

愛知県浜松市の浜松市楽器博物館には、稲垣衣白蔵の尺八が展示されていると聞き、先日訪れてみた。 浜松にはかつての虚無僧寺、一月寺の末寺の普大寺があった街。 そして、楽器メーカーヤマハ発祥の地でもある。明治時代に山葉寅楠という人が日本初の国産ピアノを製造したことをきっかけに、浜松市はヤマハ、カワイ、ローランドなどの楽器メーカーが本社を置く世界的な楽器産業の集積地に成長したとのこと。 そして、この浜松市楽器博物館は、日本で唯一の公立の楽器博物館だそうだ。 普大寺の『探墓行』

虚無僧寺総本山鈴法寺☆総まとめ

普化宗総本山とされている鈴法寺の過去現在を徹底調査!    廓嶺山 虚空院 鈴法寺  括惣派惣本山触頭 場所:武州多摩郡青梅村  (現在:青梅市新町364) 遺跡:青梅市新町1丁目22-18 鈴法寺公園内   番所:牛込納戸町  (現在:新宿区納戸町)   菩提寺: 金賜山東禅寺 臨済宗建長寺派  青梅市新町418      月海山法身寺 臨済宗円覚寺派  新宿区3-82   本尊:薬師如来 『新編武蔵風土記稿』とは、文化・文政期(1804年から1829年、化政

静岡の虚無僧寺 無量寺☆『探墓行』👣其の二

無量寺最後の虚無僧 小栗一角斎の墓あり。 其の一はこちら↓ いよいよ、無量寺の菩提寺 高野山真言宗 音羽山清水寺 境内には、俳句の碑がいくつかあります。 石仏も沢山あるのですが…、 頭が無いのが結構あります…。 廃仏毀釈の傷跡でしょうか。 観音堂 家康公寄進の造営で平成四年に解体、復元修理。御本尊の千手観世音菩薩像御開帳は三十三年に一度。 観音堂の脇に、虚無僧の墓があります。 小栗一角斎之塔 正面 小栗一角斎は、格式高い虚無僧の一人であるとのこと。

静岡の虚無僧寺 無量寺☆『探墓行』🐾其の一

駿府城からほど近い場所にある虚無僧寺、無量寺。 福聚(寿)山無量寺 所在地 駿州有渡郡安東村  後の地名・有渡郡府中清水之内 現在:静岡市音羽町清水山公園 本寺 金先派末寺頭 青木山天晴院西向寺 西向寺についてはこちらに少々↓ 菩提寺 高野山真言宗 音羽山清水寺 静岡市音羽町清水山41 建物 本堂 二十畳 庫裡  八間×六間 寺跡  百米四方位 本尊 阿弥陀菩薩像 伝行基僧正作。一刀三禮鉈作。 木造・立像・壱体。 菩提寺清水寺に現存と伝承有り。 尊

千葉の虚無僧寺『探墓行』☆三畔山松見寺

虚無僧になった出石藩士 神谷転ゆかりの松見寺跡に行く。 『仙石騒動』を調べて其の六までシリーズが続きましたが、ようやく神谷転が虚無僧になり、看主となった松見寺にやってしました。 『仙石騒動』とはどういう騒動であったかはこちらから↓ まずは木更津駅から。  終点まで行ってみたい気持ちをぐっとこらえて横田駅で下車。 地図上で見てみると、久留里線終点の上総亀山駅といすみ鉄道の上総中野駅がつながる予定だったのでしょうか。 その森が一体どこか、電車の中から目をこらしておりま

「虚鐸伝記」を読み解く 其の六 最終回! 虚無考案、新しい修行スタイル!

  いよいよ最終回です。       虚風が虚無に、 「なんじゃその怪しい格好は?!そちは気でも違ったか?」 と聞いている場面。            今回も、 以下、漢文が「虚鐸伝記」 かな文字入が「虚鐸伝記国字解」です。 その下に私の簡単な日本語訳。   遠方に行くときは手巾で裾を上げ脚絆をつけ、草鞋を履き、五尺四方の風呂敷で袱子と乾坤張を被い行李を包みます。         ここで言う手巾とは、裾を上げる為の紐の事。尻端折をするわけにもいかなかった為、紐で上げ

「虚鐸伝記」を読み解く其ノ五☆楠木正勝、即ち元祖虚無僧登場!

其の四からすっかり間が開いてしまいましたが『虚鐸伝記』の続きです! 其の四はこちら↓ 前回は、寄竹が虚空蔵菩薩堂でみた夢のお話、古伝二曲伝説でした。 張伯から十六代の張参まで吹き継がれていた曲は一体どーなっちゃったんでしょうね!? 張さん一家が登場する其の一はこちら↓ その後、 霧海篪 、虚空篪の二曲は吹き伝えられていきます。   近江の国、志賀の虚風の家に虚無が会いに行くの図 「虚鐸伝記国字解」より     以下、漢文が「虚鐸伝記」 かな文字入が「虚鐸