「誰でもよかった」という犯行動機に対する怒りについて

久々の記事である。
なのにクソセンシティブな話題を書くので苦手な人は誠にごめんなさい、戻るをお願いでございます。

さて、通り魔的であったり、無差別殺人なんかを起こしたやべえやつの常套句が「誰でもよかった」である。
その後

「刑務所に入りたかった」
「死刑になりたかった」
「人を殺してみたかった」

などと続くことが多い。

当然これは許されることではない。どんな辛いことがあろうが、無辜の民を傷つけ、未来を奪っていい理由にはならない。少なくとも俺は、殺人とは最大最悪の人権侵害だと思っている。

誰でもよかったとかいう身勝手な理由で人をぶっ殺したマジでやべえやつのニュースが日本中にセンセーショナルを巻き起こすたび、人々は義憤に燃える。
これは常識や道徳があればあたりまえのことだ。

ただ義憤に燃える人々の中に、たまに思わず「ん?」と思ってしまうようなことを言う人がいる。というか、俺の体感ではかなり多いように感じる。

それは

「誰でもよかったとか言いつつ、選んでるよね」
「誰でもよかったって言ってるくせに、自分より弱い子供や女性を狙ってるじゃんか!」
「本当に誰でもいいならヤクザの事務所にでも特攻しろや」

とかなんとか、そんな感じの意見である。

犯人や犯行に対する怒りとしては俺も完全同意するが、この手の意見はなんかズレてるように思う。

犯人を擁護する気は一切ないが、「誰でもよかった」という犯行理由に嘘も矛盾もないように思う。

というのは、犯人の言う「誰でもよかった」は、刑務所に行ったり死刑になったりするために殺したんですよという意味であろう。
だからゴールはそこで、殺人はそこにたどり着くための過程ということではないだろうか。反吐が出るような考えだが、殺人は目的ではなく手段ということだ。
もし返り討ちにされたら目的は達成できないわけで、だから犯人が「自分より弱いやつを倒しにいく」ことになんのの矛盾もないのではないか。

ライトグレーのスーツ着た東日本最大の暴力団の元四代目や、相撲部屋の親方に挑むメリットなど、「誰でもよかった」犯人にはない。

殺人というのは、基本的に私怨や私利私欲で行われるものだと思う。
ムカつくやつを殺したのであれば、それは当然「誰でもよかった」わけでもない。「ムカつくやつ」を殺さないと意味がないし、溜飲も下がらない。この場合、「ムカつくやつを殺す」がゴールであるからして、相手がライトグレースーツの元四代目だろうが元力士の親方だろうが立ち向かわなくてはならない。そうでなければ目的は達成できない。
私利私欲の場合も一緒で、保険金目的だとしたら「死んだら自分に保険金が入る人」を殺さなくては意味がない。

快楽殺人者であっても、多分殺す相手は選ぶだろう。
子どもの頃に画集のモナリザが膝のところで組んでる手を見て、なんていうかその下品なんですがフフ勃起しちゃいまして、だから「手の綺麗な女性」を狙うことにしました、とかそんな感じで。

つまりこれらは「誰でもよくない」殺人であり、世の中のほとんどの殺人は明確な標的が存在する「誰でもよくない」ものなのだ。

その前提があっての、犯行理由「誰でもよかった」なのではないだろうか。被害者とは接点ないし、この人じゃなくてもいいけど……というような。

選択式の課題があったとして、スキルアップなどの明確な目標があれば難しい課題でも選択するだろう。
一方、ただ課題をこなすことが目的なら楽な課題を選択してノルマだけ達成するだろう。
その違いである。

だから無差別殺人に怒りをおぼえたからとて、鬼の首とったように「誰でもよくないじゃん!」とか言うのは的外れなんじゃないだろうか。

ただ、本当にマジで勘違いしないでほしいのは俺は犯人を擁護しているわけではない。
その「誰でもよかった」の「誰でも」に自分の大切な人間や自分が入ってしまったら、そう考えるとそりゃ許せるもんではないし、そうでなくとも許されるもんではない。

その怒りは正しいものだと思う。
ただちょっとモヤモヤするなとも思うのだ。
で、この話をリアルですると俺は異常者みたいになりかねんし、持論をここまで長尺で語ると独演会野郎だと思われるので、ここに吐き出させてもらった。
誠にごめんなさい。



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