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予兆

ひょっとして私は、抑え込むことを必要としてるのではないか?

ぬるい身体に熱めのシャワーを浴びていると、なにやら浮かんできた。シャワーを浴びている時にこうやって何かが思い浮かぶことはよくある。

それなりに自由で申し分ない現状。
首都圏一人暮らしでテレワーク。土日はちゃんと休みで友達ともいい距離感。親族も今のところ何ともない。

これに合わせてしまったのだろうか。何か大きなモノの思惑どおり、飼い慣らされてしまったのだろうか。思考が、創造が、低下しているのを感じていた。

そんな中での冒頭の気づきだった。いろんなものに抑圧されていると無意識に感じていた10年前の方が、世界がフラクタルにつながっていたし、そこから得る着想も大きかった。

若かったことや無知だったからというのもあるかもしれない。けれど、何かを抑え込んでいたからこそ、そこから何としてでも這いずり出てやるというエネルギーが湧いていたというのも否定できない。

岡本太郎は『自分なんか蹴トバしてやれ』と言った。自分が死に向かうであろう選択をすることで、いのちが輝くと。

私は私以外のものに『蹴トバ』されてきたのかもしれない。そう思うと自分を否定してきた、あるいは馬鹿にしてきた人たちにありがたみが湧いてくる。蹴トバしてくれてありがとう。私はかけがえのない時間を過ごせたのだ。

であるならば、私はこれから自分で自分を『蹴トバ』していかなければならない。まさに自分との対峙。今までは周りがそれを補助してくれていた。自分を蹴トバして抑え込んで発散して、抑え込んでまた発散する。まるで組手か何かのようだ。

そう思って少しおかしくなった。他の誰でもない、勝手知ったる自分と組手ができるんだ。面白い。やってみようじゃないの。

髪を乾かしながら見る鏡の中の自分は、うっすら笑みを浮かべているのだった。

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