空漠から迫る運命

 夢にまで見た遥かなる地平線は、漠々たる土くれとして目に映った。夢想の如く空虚な印象は、不安、興奮、安堵、そして純粋な快感がうねりを持って私の心を支配した。
 大地の底とも宇宙の果てともつかない空間のうねりから、全世界に響き渡るような低い唸り声が聞こえる。それは既存のいかなる言語発音にも類似せず、獣の咆哮とも取れないものであったが、自然のものとするには、余りにも形容しがたい気味の悪さと先天的に植え付けられた恐怖を呼び起こした。
 何よりも私の背筋を凍らせたのは、その唸りが人類の理解を遥かに超えた純然な恐怖でしかないはずなのに、ある観念が、忌々しくも甘美な詩歌としてそれが私の脳裏に響いたからである。
「死よ、全き死よ、哀れな地の歩く白痴に、安らかな眠りを」
 それは荘厳な合唱であった。脳髄の芯で歌は反響し、身体感覚は麻痺し目眩とともに困惑する。
 数え切れないほどの視線を感じる。
 この時私は初めて叫んだと思えている。聞く者がいれば、その叫びすらこの世のものとは思えないものであっただろうが、私の麻痺した脳髄には何も感ずるものがなく、止むことのない輪唱が狂気の波を生むばかりであった。
 震える足で逃げようとしたが、岩場に足を取られ転んで服を裂いてしまった。どうにかこの場から離れようと、這い蹲り、膝を着きながら、息を荒らし逃げ惑っていた。
 肉体は限界に達し、思考ばかりが恐怖で働く中、血迷う眼に映るのは、いつまでも変わらない不気味な景色であった。
 風に舞う遥かな砂塵と、絵画のような雲がスクリーンとなって幻惑が視界に現れる。
 「死よ、全き死よ、哀れな地の歩く白痴に、安らかな眠りを」
 私はすっかりおかしくなり、脳は半分ほど溶解しているようであった。乾いた口はほころび、全身は弛緩し、下半身の感覚は熱を感じる他消え去っていた。麻痺した脳の芯から、恍惚が沸き起こっていた。哀れで矮小な存在の私は、偉大なる者たちの慈悲に進んで溺れることを選んだ。
 神よ、あなたは何故私を救ってはくれないのですか。かの禍々しい種族のみが、今は残っていないのですか。それとも、初めから主は幻であったのですか。哀れで矮小な人類の生んだ幻想であったのですか。

 原住民を先頭にした救援部隊が私を見つけたのは、私が出立してから丸2日後の昼であった。私は衰弱しながらも極度に落ち着いており、仮死に近い状態であったという。身体的な傷は深刻ではなかったが、私はうわごとをなにやらつぶやき続けていたらしい。救護施設での治療は断念され、市部の病院に移されて1週間、ようやく私は意識を取り戻した。
 朦朧とする意識の中、怒涛のように医者や見舞客との対応に追われた。私はあの場で出会ったものに関して何も言うことはなかったが、それは聞く者への配慮があったわけではなく、単にはっきりとした記憶がなかっただけである。しかし後にこうして思い返してみれば、それは賢明な判断であった。話したところで、本当に気が狂ってしまったと思われただけであろう。
 あれはもしかすれば、すっかり私の幻想であったのだろうか?そうであれば、私は妄想に取り憑かれた哀れな狂人であるだろうが、そうであればどれだけ喜ばしいだろうか。あの声と、あのはるかかなたの存在が幻であれば、どれだけ安泰であろうか。
 助けてくれ、私はあれが幻惑であったとは考えられない。確かな具体性を持って、あれは私の脳髄に侵食してきた。今なお静かな空を見れば、耳鳴りとともにあれはやってくる。私が仮初めの平穏を得るには、窓を閉め切り部屋に閉じこもるだけである。おかげで外出には玄関まで出迎えてもらわなければならなくなった。
 それでもあの詩歌はやってくる。私は祈りを捧げる。許しを請うために。1日でも長く、人類の命運が長引くように。
 死よ、全き死よ!哀れな地の歩く白痴に、安らかな眠りを…