名残香 前編

「まど、閉めるね。」
季節は春、若者は周期的に浮かれる。最後に僕らが浮かれたのは、大学に入った2年前のこと。彼女も同じなはず。
付き合ってもないのに、昔別れたっきりのはずなのに、彼女はどうしてか僕の下宿に来ていた。わざわざ親に嘘をついて、親戚の家には「友達の家に泊まる」と言って、ゴールデンウィークでもないのに東京を出てきた。なにも思ってないふりをして、なにも期待してないふりをして、僕は文句を提案も疑問も言わず彼女を泊めた。
好きだった。お互いに、都合よく。
都合の良い男だった。
彼女は美しかった。昔よりずっと。
いや、昔のままだから、一層美しい。ヴェールに隠された宝石を見せるように、彼女は僕に体をみせた。初めて見た彼女の体だった。何度も想像しては、結局言い出せなかった喉の乾きを、時間が簡単に叶えてしまった。
「どうして、寒いの?」
彼女は薄いレース生地のタオルを、胸にあてているだけだった。
「寒くないけど、いつも開けてるの?」
「寒くないならいいじゃん。」
「カーテンは…」
言いかけた彼女の手を引っ張って、ベッドに持っていった。レースが風に揺らぐ。仰向けに彼女は倒れ込んだ。タオルを持つ手を掴む。
「ずいぶん積極的になったのね」
「そうかな」
「昔はこんなことする人じゃなかった」彼女は少し笑いまじりにいう。恥ずかしいのだろうか。昔から彼女はこういう不思議なことを言う。
「そんなこと言ったら」
「お前の方が積極的だろ、でしょ。」
掴んだ手はベッドに押さえつけたまま、昔のように会話をする。初めて目にする彼女の胸。おざなりに腰に重なるレース。風が涼しい。
「お前って呼ばれるの、嫌いだろ。」
「よく覚えててくれたね」
俺のことも覚えてたじゃないか、という言葉は、女々しくて言わなかった。彼女も何か言おうと口を少し開いて、まごついてやめてしまった。泳いだ目が恥じらいを帯びたように見えた。状況に不釣り合いな、感情の隠し合いがあった。
「ねえ」
我慢できなかったのは彼女の方だった。
「いつまで、こうしてるつもりなの?」
風が止まった。心臓が急激に血を送り出す。
「ずっと、見てるだけでいいの?」
僕は、そのままゆっくりと、彼女の唇に、僕の唇を重ねた。
「ちゃんと、ちゃんと言葉にして。」少しだけ、震えていた。僕の言葉もそうだったと思う。
「好きだよ」
「嘘つき」
「本当だ」
「嘘」
「君は、」
「私は、…」
また唇を重ねる。熱く。舌を重ねる。探るように、彼女の口の奥に這わせる。彼女の首が少し浮き、僕の侵入を受け入れる。僕は、中途半端なところで口を離した。糸を引いた唇。彼女の目は憂いを帯びていた。もう僕の知っている彼女の顔ではない。
「君も、ちゃんと言葉にしてくれ。」
「好きです。」
「何がほしい。」
「キス、キスしてほしい。」
もう一度唇を重ねる。息は荒く、互いに求め合う。口を逸脱し、首筋を愛撫する。
「キスだけじゃないだろ。」
「キスだけじゃない、です。」
「ちゃんと言って。何がほしい。どうして俺に会いに来た。」
「分からない。会いたかった。もう一度、あなたに会いたかった。」
僕らはもう止まれなかった。彼女の胸は知らない味がした。誰のものかも気にならなかった。僕らの体は自動人形のように、溶け合うことを望んでいた。