瓶底の悪魔

 “混沌”と名の付くそれは好奇心に似た偶然によって我々の次元に存在を仮置きする。それは真理の一端でもあるし、我々が「恐怖」と呼ぶ暗闇から喚起する感情であったり、「狂気」と呼ぶ言語の構造的限界を超えた否応なしの表現でもある。
 “混沌”は私たちの目からひた隠しにされている。この世に、空間に、次元に座しているあらゆる知覚者の視界より隔離されている。それは顔に空いた穴であり、眼球のスープであり、法則の例外のその外を引用しなければ私たちには知覚できない。しかしながら、単純な近似性と近接性によって我々の肩を叩くことがある。イニシャルの同じ犯罪者の令状が、隣部屋に住むあなたに突き付けられるように。
 “混沌”は時間や空間といった概念を無視しこの次元に存在している。諸々の概念は知覚者の解釈の尺度に他ならない。「真理」と呼ばれるものが普遍性を持ちながら姿を千変させ自然法則を作るように。“混沌”はどこの座標にもあるし、時の断面の全てにあり、そして我々はついぞ見ることがない。さらなる次元の部外者、「偶然」が重なることがなければ。

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 喫茶店のマスターはウィスキーを集めるのが趣味であった。小さなビルの地下にある小さな喫茶店。時代にそぐわずレコードを流し、客を待たせて珈琲を淹れる。客は8人で満席となる。
 開店前、マスターは20年もののアイリッシュを一口飲んでいた。もうボトルには3,4人分しか残っていない。こういうボトルは、飲ませてやりたいお客が現れるまで店にとっておくのがマスターの趣味であった。彼はボトルを箱に戻すと椅子の上に立ち入り口の上にある棚に置いた。そうしてそこにあの悪夢が現前することとなった。箱が開くまでのわずかな間、誰にも気づかれず少しばかり間借りする心づもりで。
 この店は夜中に混む。夜になってから店を開け、日付が変わることには常連何かを書き始めている。今日もそんな日だった。客はみな静かに本を読むか、カウンターで何か話あっている。
 物書きがカップに手を伸ばすと、珈琲の淵が小さく波打っているのに気づいた。揺れは一定のリズムを刻み、カチャカチャとカップと皿が鳴り合う。初めは他の客も落ち着いていたが、グンとひと揺れ大きくなった。反射的にみな声が漏れ、テーブルを掴む。その後すぐさま揺れは収まった。「お怪我はないですか?」マスターが客に呼びかける。「ちょっと大きかったね」「コップが倒れずよかった」と各々が話し始める。マスターが端から客に目を通すが、特に事件は起こらなかったようだ。すると視界の端に、夕方置いたケースが見えた。棚の淵から半分出ているのに気づくのと、落下を始めるのは同時であった。「危ない!」とっさに体が動くより早くウィスキーが床に落下する。

ゴト。

その音は岩を置いたように重く、静かであった。店が静まり返る。箱は跳ねもせず、底面の一辺から床につき、そのまま滑らかに、まるで誰かが優しく抱き寄せていた赤子を置くように、側面を下にして床に倒れた。

瓶の割れるような音はなく、代わりの何かが箱の隙間から滲み出している。悪魔である。