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伊勢物語・芥川

昔の話だ。

その男は、ある女に恋焦がれていた。たいそう高貴な女であった。身分違いの恋だった。叶うはずがない相手で、どう手を尽くしても、結ばれようのない恋だった。

にもかかわらず、それは重々承知していたはずだったのだが、長年身を焦がし続けた。そして、思い詰めてとうとうある朔の夜、その闇夜に紛れて忍び込み、女を盗み出してしまった。(恋に焦がされた若者は、今も昔も、むこうみず!)

(男は夜目が利く。命を縣けた一世一代の覚悟はしかし拍子抜けするほど簡単に、意中の女は男の腕の中にいる。触れたこともないような上質な床を踏んだ。かすかに漂う空気は男が知る「家」とは全く違った。密やかな人の気配がさざなみのように波うち、ぜいたくな火と油の香りがゆらめき、街の喧騒は届かない。目当ての女の部屋をひらいて見合った時の、唖然としたような、待ち望んでいたような女の目線に、男は焦がされるようだった。)

いっそう暗い夜道の中、もう街の外れを歩いていた。男自身もそこがどこだと確かには言えないような場所で、この川の名は芥川と言ったか。この川の流れはいずれ「うみ」ヘ届くという。
その時、今までずっと黙っていた女が不意に口火を切った。「きれい」と。
「え?」
「あれは何?」
女の目線は、草に結んだ露を見ていた。

男は身震いした。(今でも男はそのときのことをありありと思い出すことができる)

(女の無邪気さが、羨ましくもありおそろしくもあった。身分違いという事実が重たく男の上に覆いかぶさってきた。自分はこれから、この、世間など何も知らない女と暮らすのだと思った。ただ自分と、この女とで。)

目的地までは遠く、夜もようよう更けてきた。雷も酷く鳴っていたし、雨足も強く、たたきつけるようだった。
もしかして昼間であったなら、そこが鬼のねぐらだと分かったかもしれない。
ちょうど道の先に小屋が見えた。近づけば荒れ果てていて、けれども雨風はしのげそうである。

男はいっとき女を手放すことに決めた。

女をその小屋に押入れて、自分は戸口に背を預けた。担いでいた弓を抱え直し、はやく夜があけてほしいと思った。耳を覆うほどの雨と風の音。それを引き裂く雷。少し前には味方だった夜の暗さが、今では男の所業を叱責しているようだった。

(男は自分の手を見下ろした。いまだ女の香りが、衣の織りのきめ細やかさが、肌の上に触れるほど、残っていた。心細くすがってきたあの腕を払って押込めてしまった。女のおびえたような目がよみがえって、男は二度三度と頭を振った。そうするのが最善だと思っていたが、本当にそうだったのだろうか。…いや、そう、最善などと言えばそもそも、あの家から女を持ち出さなければよかったのだ。)

男はずるずると腰をおろした。
鬼は一口で女を飲み込んだ。
女の悲鳴は聞こえなかった。雷と、雨風にまぎれて男の耳には届かなかった。

ようやく空が白んできた。男は戸口を引き開けた。そこには何事もなかったようなただの空き家が広がっていた。どこを探しても女はいなかった。

男は。(足摺りをして泣けども甲斐なし)

白玉か何ぞと人の問ひし時露と答えて消えなましものを・あの光るものは真珠?とても素敵な、何かしらと、あなたがささやいたあの時に、あれは露と言うのだと、答えてそのまま一緒に消えてしまえたのだったら

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