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ぎゅうにゅうあれるぎぃー

先週、娘のアレルギー負荷試験に行ってきました。

結果から先にお伝えすると16ccクリアしちゃいましたー!!
毎日飲まなきゃいけないのにさぼっていたので、クリアできるとは思わなくてビックリ!!

もちろん!
もちろん!!
嬉しいことなんですが、ちょっとこれまでとは違う感覚になったんです。

その日は、負荷試験後に年に一度の採血が急きょ決まり、注射が大の苦手な娘は大泣きからの大暴れ…

娘よりずっと小さな子たちがサクッと採血していく中で、処置室に入れず…入っても座れず…

近くのお母さんがに「注射なんて怖くないよね」と小さな女の子に語りかけながらこちらをチラチラ見るし、娘は娘で「オレ、注射大好きだから!」と小さな男の子に自慢され…

ぶっちゃけ凹みました。
(凹むって漢字を考えたのは誰ですか?完璧ですね)

この病院の看護師さんはみんなとても優しくて…救われました。いや、毎回救われています…

けれど…帰りの車の中…

これ、誰得?と悶々としてしまったんです。

元々、誤飲や誤食をした時に危険(娘は呼吸に症状が出やすいからなおさら)なため、アレルギー治療を始めました。

というか、いつか食べられる、飲めるようになるのが当たり前で、そこを目指すことに何の疑問も持たなかったんです。

だから、ちょっとずつ量が増えていく度に、「よかった!」を重ねてきました。

でも、危険!じゃなくなったらアレルギー治療をする必要ってあるのかな?と疑問を抱くようになったんです。

娘は、アイスもケーキもヨーグルトも食べたいわけではなく、むしろ「牛乳は変に甘くてイヤ!」だし、「怖いから食べたくない!」のです。

「食べられた方がいい」「飲めた方がいい」の「方がいい」と本人の「食べたくない」「飲みたくない」を天秤にかけた時、え?これ、どう考えても本人の気持ちが大事だよね?と思ってしまったんです。

けれど娘はまだ小学3年生。

知らないことも経験値もまだまだです。

だから親がジャッジして決断していく。

育児に正解はない

この言葉を本当に好きでよく多用するのですが、それはあくまで「誰かに判定される正解」はないのであって、「自分にとっての正解」はあるよなぁとつくづく思います。


息子が長期入院していた頃、明らかな医療ミスがありました。でも病院はそれを認めませんでした。
そのミスで急性的な副作用があったわけではありません。けれど、その投薬により、いつか息子の体に何かあったら…と思ったら怒りを鎮めることは簡単ではありませんでした。

その際、ドクターに伝えた言葉があります。

「息子は何もわからず言われたとおりに治療を受けるしかないんです。一つ一つ、手術や薬による副作用を理解して決断するのは親の私たちです。もちろん、受けないという選択肢がないのはわかっています。けれど、本人が判断できない年齢である以上、親の私たちが息子の未来に責任を持たなければならないんです。今回のことをこれ以上どうこう言っても仕方ないのでもう言いませんが、それだけは覚えておいてください。」



親は子どものために何をするのか?

「守る」こと

見守ることも守ること
イジメにあった時に立ち上がって守ること
いつでも味方だと隣で守ること

もう守られなくていいよと言われるその日まで…

親の覚悟は守ること。


そして未来を信じること。

力強く信じる!

そう…そのために、自分の判断の正解を探し続けたいと思います。


というわけで、悩みながら、迷いながら、笑いながら、半ベソかきながら…牛乳に向き合おうと思います!!



余談ですが…
息子の2度目の治療途中、この土地に引っ越すことに決めたとき、地名に「守る」が入っていることをどこか頼もしく感じた記憶があります。

あの漢字博士に会いたいな…



読んでくださってありがとうございました。

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