誰かのために書いたことが自分のためにもなる

わたしが書くものは、わたしならぬ誰かのためのものだけれど、それが他ならぬわたしのためになることもある。この頃、以前書いたことを読み返していると、以前よりも腑に落ちることがある。なぜそんなことになるのか。以前よりも腑に落ちるということは、以前は今よりも腑に落ちていなかったということになる。そういう中途半端なことを書いていた。いや、そんなことはありえない。物を書くなら魂で書いているはずで、それを守っているとしたら、きちんと感じて考えたことしか書いていないはずである。しかし、だとしたら、どうして以前書いたことについて、今の方が腑に落ちるのだろうか。うーん……わたしが成長したから、書かれたことの意味がより深く感じられるようになったのだろうか。そんなに成長したとも思われないけどなあ。そもそも「書かれたこと」と言ったところで、書いたのは他ならぬ自分である。過去に自分が書いたことの意味を、現在の自分がより深く読み取るなんていうことが全体あるのだろうか。あるとしたら、書いたのは一体誰か。もしかしたら、それはわたしではないのかもしれない。とすると、以前書いたものはこのわたしが書いたものではないということになって、いわば他人が書いてくれたものということになり、冒頭に書いた「わたしならぬ誰か」の中に、「このわたし」も含まれていたということになる。

どこかの歌い手が「10代の頃に書いたリリック(歌詞)に殴られる」と歌っていたが、書き残しておかないと殴られるなり納得させられるなり、ということは起きないわけで、あなたも今考えていることを今書いておこう。それは未来のあなたに届き、今のあなたが間違っていたり、正しかったり、あるいはそのどちらでもなかったり、ということを判別してくれるかもしれない。

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