道路族の子どもたちの悲しみ

家の外、道路で子どもたちがサッカーボールを蹴っている。ボンボン、ボンボン、非常にうるさいし、たまにわたしの家の壁にも当たるしで、早々にやめてもらいたい。全くもって腹立たしいのだが、一言怒鳴ってご近所トラブルになると、それはそれで面倒であり、注意にはなかなか二の足を踏む。

このように、路上で遊んで、近くの家々の人間に迷惑をもたらす子どもを、道路族と呼ぶようである。道路で遊んでいる子どもに迷惑をかけられているなんて、日本広しといえども、わたし(とその近所の人)だけかもしれないと思って、インターネットで調べてみると、他例が数限りなく出てきて、ほとんど社会問題と言ってもいいくらいだった。

「何が社会問題だ。子どもが道路で遊ぶなんて当たり前じゃないか、目くじらたてなさんな」という意見もあるようだが、まあ、とりあえず、その道路族の行為とそれから受ける迷惑については置いておこう。

それ以外に何を書きたいのかと言うと、道路族の彼らの無知についてである。彼らは、自分たちの行為が、他人の迷惑になっているということを知らない(……まあ、知っていて、なおやっているのかもしれないが)。知らないし、教えてくれる人もいない。彼らは、自分たちの行為を自省することがない。一生、自分たちの行為の意味を知ることが無い。この無知は悲しいことではないだろうか。もちろん、これは傍から見てということだが。彼ら自身は何も悲しくはないだろう、楽しくボンボンやっているわけだから。

そうして、これは、道路族の子どもたちに限られない話ではないだろうか。「時間=命」という信念のもとに、単位時間当たりの効率を最大化して生きようとしている世間の人たちも、自分たちの行為に夢中になって、その行為を自省することがない。いや、あると言えばある。しかし、それは、どうすればより効率よく幸福になれるだろうかという自省の仕方である。

彼らは、道路族と違って、他人に迷惑をかけているわけではない。しかし、自らの行為の意味を自省しない点では同じである。自らの行為の意味を知らない。この無知は悲しいことではないだろうか。もちろん、それは傍から見てのことであって、やはり当人たちは楽しんでやっているのだろうが。

#エッセイ

読んでくださってありがとう。もしもこの記事に何かしら感じることがあったら、それをご自分でさらに突きつめてみてください。きっと新しい世界が開けるはずです。いただいたサポートはありがたく頂戴します。