2020東京五輪に全く興味が無いという話

まあ、タイトル通りでしかないのだが、来年行われる東京オリンピックに全然興味が無い。見に行く気もなければ、テレビで見るつもりもない。来年のことだから、今年はまだ興味が湧かないだけかもしれないけれど、毎回の夏季・冬季オリンピックも、気がつけば終わっていたという感じだから、やはり来年になっても興味は湧かないだろうと思う。日本で開かれる実に56年ぶり(※今調べました)のオリンピックに興味を持たないなどと公言すれば――今、ここで公言しているけれど――非難を免れないところであるが、興味が無いものは仕方がない。

オリンピックへの無関心くらいだったら、まだ許されるかもしれないけれど、政治や経済にも興味が無いということになると、社会人として失格ということになるだろう。お前には社会人としての自覚が無いのか、なんと責任感が無いヤツだ、と言われるかもしれない。しかし、社会に対して興味を持って、政治・経済活動をしっかりと行って社会責任を果たしたとして、そのようにして生きたわたしの人生の責任は誰が取ってくれるのだろうか。もちろん、誰も取ってくれはしない。当たり前。興味ないものを興味ある振りして使ったその時間は、他でもないわたしの時間なのである。あとから、補填してくれるというのであれば、政治や経済について考えたり行動したりするのに時間を使ってやってもいいが、もちろんそんなことはあり得ない。

色々な社会的あれこれに興味を持って、忙しく動き回っている人がいるけれど、わたしなんかは、時に、そういう人たちに対して、「そんなにウロウロするな、ちょっと落ち着け、座禅でも組め」と言ってやりたい気持ちになる。好きでやっているだけかもしれず、余計なお世話だということが分かっているので、実際に言うことは無いけれど、そんなにあれやこれやに手を出してどうするんだろうという気がする。

興味が無いことは興味の無いまま放っておくことはできないか。いや、社会に関することは、その社会に住む人みなの問題なのだから、やはり興味の有無の話でないのだ、ということになるかもしれないけれど、それぞれの問題に関して、他の人よりも興味を持つ人がいるだろうから、その人に任せるのはどうか。小学生の不登校の問題に関しては、その問題に心から興味、すなわち問題意識を持つ人に任せる。中国との外交に関しては、その問題に心から問題意識を持つ人に任せる。そんな具合でいいだろうし、現にそうなっているのではないか。人間が生きていく上で、あれもこれもに興味を持つというのは、まあ、ただ持つというだけならまだしも、真剣に取り組むほどの興味を多数に関して持つのは、これはなかなか大変なことである。

わたしは、社会問題に興味を持つなと言っているわけではなく、社会人なんだから興味を持つべきだとする言説にただ流されると自分の時間を捨てることになると言っているだけである。社会に尽くせば社会からは認められるだろうが、社会から認められることにどのような価値があるのかを、先に認めておかなければならない。

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