感謝は幸福になるための手段ではなく、幸福のあらわれである

仕事が夕方からなので、日帰り温泉に入ってきた。源泉掛け流し。人もあまりおらず、ゆったりとした気分で湯につかることができた。露天もあって、秋の穏やかな空を見上げながら入浴していると、心からリラックスできて、願わくば温泉の中にて秋死なん、てな具合である。

幸福というのは、それほど大したものではなくて、一回400円で入れる温泉の中にもちゃんと存在して、それはつまり、幸福というのは心の中にあるのだと言えば、大分陳腐な話になるが、やはりどうしてもそういうことらしい。

幸福を感じると、自然と感謝の念が湧いてくる。温泉があること、そこまで来るための交通手段と健康状態があったこと、時間があったこと、400円があったこと、そういうことに対する素直な謝意があふれるようになる。

しかし、これはあくまで幸福の結果として感謝があらわれるのであって、幸福の手段として感謝を使うというのではない。よく、幸福を感じるために、身近なものに感謝しましょうという言い方がなされるけれど、目的を持った感謝などというものは、ちと品が無いのではないか。

「いつもご飯を作ってくれてありがとう」と子どもが母親に言うのは、ご飯を出してもらえるありがたさに感動したから言うのであって、そう言うことによって母親に、これからもご飯を作り続けてもらいたいがためではないだろう。

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