7/11 from Fukushima

今日も曇っているが、じめじめとして、今からもうちょっと暑い。そろそろ梅雨も明けるのか、どうか。ああ、嫌だ嫌だ。7月下旬から8月が、本当に憂鬱である。

昨日は、全国で429人の感染者が確認された。福島県でも、郡山市で一人感染者が出た。40代男性、東京で感染が確認された患者の同僚で、郡山市には仕事で来ていたとか。連日東京でかなりの数が出ていたので、福島で出るのも時間の問題だろうと思っていたが、もう出るとは。新幹線半額に、GoToキャンペーンによって、ますます増えそうである。

昨日のツイッターのトレンドに、「ポテトサラダ」が挙がっていた。何でも、幼子を連れてスーパーの総菜コーナーでポテトサラダを買おうとしている女性に向かって、「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と声をかけたじいさんがいたということである。色々と意見があるようだけれど、わたしが感じたのは、こういう高齢者にはなるまいということと、こういう高齢者は今の世の中では受け入れられないだろうなということである。

まず、わたしはこういうじじいは嫌いである。何が嫌いと言って、幼子を連れた女性に向かって言うだけ言って立ち去るというこの行為の醜さ、卑怯ぶりと言ったら無い。人は何のために年を取るのか。こういうじいさんを見ていると、もうろくするために年を取るのだ、と言わざるを得ず、暗澹とした気持ちになる。「それ相応に年を取っているなら、スーパーで総菜を買う必要性がある母親の立場くらい想像してみたらどうだ」と、じじいには言ってやりたい。

そうして、わたしにしてもそういう気持ちを持つわけだけれど、こういうじいさんは、今の世の中では受け入れられないだろう、と思うのだ。受け入れるというのは、その行為を許すということではない。そうではなくて、「ああ、こういうじじいもいるなあ。一言注意じじい。こういうじじいは、そういうじじいだから、気にしてもしょうがない。蚊に刺されたと思って、あきらめよう。気にしない、気にしない」と、その存在を認めるということである。わたしは、そんなに古い人間ではないけれど、一昔前には、ある種の人間に対して、もうちょっとは、そういう受け入れ方ができていたのではないかと思う。しかし、今では、人間存在に十二分に尊厳を与えたせいで、尊厳ある人間の行為は、必ず理性に基づいて為されるものであって、それは、是か非かで判断されなければならない、ということになってしまっている。これは、ちょっと窮屈ではないかと思う。

このじじいにしても、あるいは、何かしらの力のしからしむるところによって、どうしてもポテサラについて一言注意せざるを得なかったのかもしれない。それがどんな力かは知らないけれど、大事なのは、この「知らない」ということではないだろうか。どんな動機や背景があって、じじいがこんなことをしたのか、知らない。もしかしたら、じじい自身だって知らないかもしれない。

今の人は、何でもかんでも知りすぎていると思う。知ることよりも、むしろ重要なのは、知らないということであって、知らないということがどういうことかを知るということである。これが、いわゆる、「無知の知」である。

ポテサラ注意じじいの話が、まさかの「無知の知」につながってしまった。ソクラテスもびっくりだろう。ソクラテスは、じじいになっても飽かず青年たちと議論を続けたと言う。知らないということがどういうことか分かっていたからこそ、彼は、ポテサラについて注意することなどなく、議論を続けていたのかもしれない。

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