身体という他者

昨晩、久しぶりに腹痛になった。わたしは、胃腸が弱いので、あまり食べ過ぎないようにしている。しかも、ほとんどジャンクなものを食べないようにもしている。そうやって食事にある程度気を遣っているので、あんまり腹痛にならないのだけれど、昨晩そうなってしまった。

こんなに注意しているというのに腹痛になるとは全く理不尽だが、怒ってみてもしょうがない。大体にして誰に怒ればいいのかということになる。腹に怒ってみても、そのストレスで、ますます腹が痛くなるだけの話である。

それにしても、体というのはままならないものだ。自分の体のハズなのに、腹痛一つ起こさないようにさせるわけにはいかない。これは、本当に「自分の」体なのか? どうもここからして怪しい。いや、「他人の」体でないことは確かだが、かと言って完全に自分のものだと言っていいのか。つい忘れがちなことではあるが、体は自分で作ったものではない、身体髪膚これを父母に受く、親から与えられたものだ。

生きるためには様々なことをする必要があり、たとえば、呼吸をすることが必要だけれど、この呼吸は自分がしていると言っていいのか。無意識にしていると考えることもできるが、体がしてくれていると考えた方が自然ではないか。

体がしてくれていることだとすると、わたしは、体に生かされていることになる。では、生かされているところのこのわたしとは一体何なのだろうか。体のおかげで、生かしてもらっているこのわたしとは。わたし『の』体、わたしが体を持っていると言うよりは、実は、体の中にわたしというものがあると言った方がいいのではないか。

いや、そうではなく、体というものはわたしの一面であると考えた方がいいのか。もう一面に心。わたしというものを、物理的な側面から見れば体、精神的な側面から見れば心であって、それらは相互に関わりを持っていると考えると、これはまあかなり常識的な結論だろう。

体を動かすことを仕事としているアスリートは別にして、現代人は、普段あまり体のことを意識することは無いのではないか。体のことを意識するのは、昨晩のわたしのように健康を害したときだろう。このときに、体が唐突に、自分のコントロールの及ばないもの、他者として立ち上がってくる。実は、自分が体のおかげで生き延びさせてもらっているということが理解される。腹の痛みとともに。普段無下にされている体からの反撃である。

そもそも体がなければ、われわれは存在できない。体が存在の基盤である。そうして、体はわれわれが作ったものではない。さっき親からもらったと言ったが、親だって意識して作ったものではない。試みに、どうして手足の指が五本なのかということを考えてみれば分かる。このわれわれが作ったものではない体によって存在することの不思議を感じることができれば、日々の生活はそれだけで面白くなるのではないか。腹痛の時だけ体を意識するのでは、ちょっともったいない気がする。

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