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愚痴を聞いてあげられるかどうかが、その人への気持ちを表している

ゆえあって、ひとさまの愚痴を、今朝1時間、聞かせていただきました。

わたしは、愚痴を言うのも聞くのも嫌いなのだけれど、まあ、それはとりあえず置いておいて、あの愚痴を聞く時間というのは一体なんなのだろう、と改めて考えさせられました。愚痴を言う人というのは、これは人によるのかもしれないけれど、聞き手の意見を求めていないんですよね。言うことが目的であって、解決策や、まして、反対意見なんてのも求めていない。ということは、彼らは、まあ、壁に話しかけているようなものなんです。しかし、聞いているこっちは、壁のように無心にはなれないので、じっと聞いていなければいけないわけなんですが、ただ、聞くというのは本当に難しいものですね。

学生時代は、授業があって、聞くというのが当たり前でした。1コマ50分なり、90分なり、とにかく聞かなければならなかった。しかし、今は、ほとんどそういうことがない。仕事でもじいっと聞いていなけりゃいけないなんてことはないし、プライベートでも講演会を聞きに行く機会もないので、じっと聞くという時間は、免許更新時の講習の時か、今朝みたいに愚痴を聞くときくらいしかないわけですよ。いやいや、貴重な経験だった。

聞いているうちにふと思ったのは、愚痴をしっかりと受け止めてあげられるのであれば、その人のことを好きと言っていいのではないかということ。愚痴自体嫌いなので、誰からも聞きたくはないのですが、とはいえ、人が愚痴を言いたいときがあるという気持ちはまあ理解しています。その愚痴を喜んで聞いてあげられるかどうかが、その人への気持ちを表しているのではないか。おむつを替えてあげられるかどうかが子ども好きと言えるかどうかを表しているように、汚い部分を処理してあげられるかどうかがその人への気持ちを表しているとしたら、うん、わたしは、今日愚痴を言った人のことをあんまり好きではないということに気が付きました。

#エッセイ

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