時の贈り物

今朝、noteを開いたとき、「あなたのnoteが話題になっています」という知らせが飛び込んできて、ある方がわたしのnoteをご自分のnoteで取り上げてくださったことを知った。そのnoteを読ませていただいたところ、好意的なことが書かれていて素直に嬉しかった。わたしは、好かれるためにnoteを書いているわけでは全然ないけれど、肉を持つ人間であるので、好意をいただければそれはもちろん嬉しいに決まっている。近頃、他ならぬこのnoteの場で、嫌なことがあり、事が起こってから、ある程度、時間が経ってはいるのだが、まだ怒りが収まらないところへの好意であったので、「捨てる神あれば拾う神あり」だなと実感した。

今なにげなく、「『捨てる神あれば拾う神あり』だなと実感した」と書いたが、そう実感できるためには、その「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を先に知っていなければならない。その言葉を知らなければ、その言葉を実感することはできないわけである。これは、言い方を変えると、言葉として先に知っておけば、そのうちにその言葉の意味するところを実感することができることもあるということだ。先頃、わたしは、論語の一節である「朝《あした》に道を聞かば夕《ゆうべ》に死すとも可なり」という言葉の意味を実感した。これを初めて聞いたのは、おそらく小中学生の頃であって、それから何十年かを経て、ようやく実感が伴ったわけである。意味が分からなくても、その言葉を覚えてさえおけば、その言葉が表わすことをいつか実感できる日が来る。

今ではなくていつか実感できる。わたしは長い間、そういう言い方を、軽蔑していたような気がする。「今は分からなくてもいい。いつか分かる日が来る」という、大人がよく子どもを諭すときのあの言い方は、相手を低く見て自己を高みに置いた特権的な物言いであって、それに類することを聞くたびに、イラッとしたのを覚えている。しかし、わたしもある程度年を取って、どうもそう言わなければいけないことが存在するということを、認めざるを得なくなった。

いつか分かる日を迎えるためには、その分かるべき事柄を言葉として知っておく必要がある。言葉の意味が分からなくても、その言葉自体を知っておかなければならない。江戸時代の教育においては、素読というものが為されていたらしい。これは、論語のような古典を、意味も何も考えずに、ひたすら音読するというものである。今の合理主義的な世の中では、なかなか受け入れがたい教育方法かもしれないが、言葉を知るという点で、これは重要な教育法だと思う。

ところで、合理主義という考え方に一言触れておくと、合理主義というのは、この世の中を合理的に見る考え方を言う……のでは実はない。そうではなくて、合理的に見られるものだけを世の中だとして、合理的に見ることができないものは排除して無いものとする、そういう考え方を言う。四角な座敷を丸く掃いて、掃ききれなかった四隅は無視するというものである。現に合理的になっている現代社会では、よっぽど注意して扱った方がよい言葉である。

さて、ある言葉の意味をそのときは分からなくても、あとから実感するということは、それだけ精神が円熟したということである。この円熟という言葉は今どの程度使われているかわたしは知らないけれど、まあ、それほどは使われていないような気がする。誰も彼も、今すぐ分かるインスタントな知識を摂取することに熱心で、円熟、すなわち熟成を要するような知識などは省みられることがない。しかし、今すぐ分かることというのは、今すぐ分かることでしかない、ということは知っておくべきだ。

年を重ねないと分からないことがある。年を重ねることの価値はそれを認識することにこそあると言ってよい。年を重ねた分だけ、さまざまな経験を積んできたから偉いわけではない。そんなものは、いずれ誰でもするものである。そうではなくて、どんな経験であれ、そのそれぞれの経験がその年にしかできなかったのだということを知ることに価値がある。しかし、これを知ることはそのまま年を取るということでもあるから、若い人には分からないことである。それでいい。いつか分かる日が来る。

覚えた言葉は、あなたを待っている。あなたが円熟したとき、必ずその言葉の意味を実感する。「そうだったのか……」と深い感慨の吐息とともに腑に落ちることだろう。それは、時からの贈り物である。その時を楽しみにして、わたしがこのnoteで言ったことも、覚えておいてもらえるといい。

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