他人とたわむれることの無意味

noteを再開して、分かる人にだけ分かればいいやというノリを徹底させて書くことにしたわけだけれど、そうすると、かえってお節介になるようである。あとから読み返すと、書いてもしょうがないんじゃないかと思われることまで書いてしまっている。まあ、それもそれでいいだろう。親戚のおじさんおばさんの説教だって、あるいは役に立つことがあるかもしれないし。

で、今回書きたいのは、他人とたわむれることの弊害である。他人とたわむれるというのはどういうことかと言うと、何かに関する他人の意見をありがたがって聞いたり、自分の意見に対する他人の同調を求めたり、つまりは、他人と意見交換することである。これ、意味ないです。いや、意味があるものは意味があるけれど、意味が無いものは意味が無いと言ったほうがいいか。意味があるものは、ある。しかし、その意味というのは、どういうものかと言えば、それによって具体的に自分の行動が変わるということだ。

他人と意見交換することによって、何かしら自分の行動が変われば、それは意味があるけれど、他人と意見交換しても、何ら自分の行動が変わらなければ、そんなものには何の意味も無い。たとえば、ワイドショーのコメンテーターの意見を聞いて、「なるほど、そういう考え方もあるのか、これは一つ利口になった」と思って、しかし、まったくその後の生活態度が変わらなければ、以前と何も変わっていないわけだから、聞いただけ無駄だということである。あるいは、逆の立場でもいい。人に対して、何かを言って、言われたその人の行動が以前と何も変わらなければ、あなたが言ったその言葉は、何の意味も無いということである。

この意味の無い、まさに「たわむれ」としかいいようのないことが、そこかしこで行われている。SNSの隆盛によって、それはいっそう激しくなったことだろう。あることに対して意見を言い、あるいは、意見を聞いて、それでおしまい。何一つ昨日と変わらないまま、また、何一つ変わらない明日を迎える。

一度、他人との交わりを断って、自分とじっくりと対話してみたらどうか。一日、SNSを見ない日を作ってみる。いや、見てもいいのだけれど、SNSで取り上げられている問題について、他人のコメントを見ず、自分も簡単にコメントを投稿することを控えて、じっくりとそれについて思いを致してみる。ある問題を、じっくりと考えることによって、どうしても自分にはそう思われるという結論に到達したなら、それは、必ず、その人の行動を変えるはずである。

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