体調が悪いときに見えるもの

ここ最近、手荒れがひどい、背中が痛い。現在、この二苦によって、大方のことがどうでもよくなってしまっている。実に簡単な話である。どうでもよくなって、どうでもいいと思いながら、昨日は仕事をこなしてきた。この文章も、若干そんな気味合いで書いている。しかし、どうでもいいと思いながら、その物ごとをこなす時、もしも真にどうでもいいと思っている状態なら、それをしないだろうから、実はどうでもいいとは思っていないことになる。どうでもいいパラドックス。世は矛盾に満ちているが、それは別にわたしのせいではない。

それにしても、ちょっと手が荒れて、ちょっと背中が痛いくらいで、世の中のことをどうでもいいと思ってしまうわけだから、これは、もちろん、わたしという人間の意志薄弱さに起因する事態であることは明らかであるけれど、人間全体にそういう部分があるのかもしれない。風邪を引くだけで世界観が変わるのが人間である。思い人に振られた人間は、この世には絶望しかないように思われることだろう。

新井白石が父親からいましめられたことの中に、「体調が悪い時は口を閉ざせ」というものがあったらしい。人間、体調が悪いと平時には思っていないことを口走ってしまってあとで恥をかくことになるのだぞ、と。しかし、これは逆に言えば、体調が悪いときには健康な時には言えないことが言えるということでもある。

わたしたちはどうしても体調がいいときに理性が存すると思いがちである。健全な精神は健全な肉体に宿る。しかし、これは、もしかしたら間違いなのではないだろうか。体調がいいときにも体調が悪いときにも、それに応じた理性というものがあって、それぞれの理性によって、世界をとらえようとしているだけなのかもしれない。すなわち、体調が悪いときには、体調がいいときには見えないものが見える。体調が悪いときにしか見えないものが。

そうだとすると、体調が悪いことも一概に悪いとは言い切れないことになる。現にわたしにしたところで、現在体調が悪いことによる、この「大方のことがどうでもいい」という感覚は、貴重だとも考えられる。体調がいいとついついあれこれやってしまいがちだけれど、それが大方どうでもいいことなのであれば、体調がいいときには、大方どうでもいいことを嬉々としてやっていることになる。これでは、理性が存するはずの体調がいいときの方がむしろ非理性的であるということにならないだろうか。

今しばらく、手荒れと背痛が続くことを、あえて望んでみよう。

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