人はどんなものからでも学ぶことができるけれど、

果たして、それは学ぶべきものだったのかどうか、と考えることは少ないように思われる。そもそもからして、学ぶということは、無条件に良いことだと思われている。しかし、本当にそうか? この前、「察してちゃん」のことを書いた。(→「察してちゃんを脱してちゃんと要求せよ」) 察してちゃんからでも学ぶことはできる。たとえば、何がその人をして察してちゃんたらしめたのか、人が察してちゃんになる心理的条件であるとか、あるいは、自分にも察してちゃん要素があるのではないだろうかと、ひとの振り見て我が振り直せ的なこととかも学べる。学べるとして、そんなことが分かって、それが一体何になるのか。

理解、知識、認識、そういったものは、手に入れることが絶対的にいいことだと思われている。しかし、そうではない。なぜなら、何かを手に入れれば必ず何かを失うことになっているからである。手に入れれば失う。この理屈、頭で分かった振りはできても、肌で感じられている人は少ないのではないか。あるいは、そもそも頭で分かった振りをできる人さえ少ないかもしれない。こういうものは、スピリチュアルな考え方である、あるいは、人生訓的なたわごとであると思われがちだ。しかし、これは端的な人生の真実である。

この「手に入れれば失う」ということに関しては以前書いたことがある。簡単に例を出せば、お金を手に入れれば倹約の心を失い、恋人を手に入れれば一人の時間を失う、というそういうことである。手に入れることで確実に失うものがあるわけだけれど、人は何かを手に入れたときに手に入れたことによる喜びが大きいせいで、そのとき失われたものについて悲しむことがない。あるいは、悲しむことがあったとしても、失ったものよりも手に入れたものの方が素晴らしいのだと比較考量して納得するが、その考量は、あくまで手に入れた状態からのものに過ぎない。恋人がいる方が一人でいる方と比べていいと思われるのは、現に恋人がいる状態になったからでしかないわけである。

さてさて、それでは、わたしは察してちゃんの認識によって、何を失ったのだろうか。まず確実に時間を失ったことは確かである。加えて、認識したことをnoteにしたわけだけれども、noteにしたということは、それが他人に読まれるべきものだと思ったということであって、そんな察してちゃんについてのことを読まれるべきものだと思った、言い方を変えると、書くべきものだと思ったというところから、書くことに関するプライドをも失ったかもしれない。これらのものは取り返そうとしてももう二度と戻って来ない。取り戻すことができないなら、せめて哀悼の意を捧げよう。ああ、悲しい。

理解、知識、認識は手に入れると、お金や恋人と違って、捨てることができなくなる。あとから断捨離するわけにはいかないから、それらには、よくよく注意が必要である。だから、昔から、偉い人は、余計なことを考えてしまわないように、大事なことを考えられるように、しばしば一人になったのである。本居宣長は、勉強するときには二階に行って、一階から誰も上がって来られないようにしていたそうである。察してちゃんなどの困った人に時間やプライドを奪われないように気をつけていたのである。

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