もっともらしい批判の底にあるもの

堀ちえみが舌がんを公表したことに対して、松嶋尚美が、生放送中の情報番組で、「かわいそう」と涙を流したことについて、「『かわいそう』は失礼じゃないか」という声が上がっているようである。松嶋尚美という人は、前にも何かこの手のことで話題になったことを覚えている。……ああ、あれだ、南青山の児童相談所建設に関して、自分が住んでいるところの近くに児童相談所が建設されたら引っ越すと言った人だった。そのような物議をかもす発言をする人がいまだコメンテーターであり続けるということには何かしらメディア側の意図があるような気がするが、まあ、どうでもいい。取り上げたいのは、番組制作上の戦略や、彼女の人となりなどではない。

「かわいそう」発言に対する「それは失礼だろう」という批判、一見、この批判はもっともらしいものだ。また、思い出したのだけれど、数日前、ウーマンラッシュアワーの村本氏が、ツイッターで福島県の浪江町がなくなると発言したことに対して、「失礼じゃないか」と批判が集まったことがある。まあ、この批判も一応もっともらしい。

しかし、である。批判する人は気がついていない。実は自分たち自身も、自分たちが批判したコメントと同じことを考えていることに。ガンを公表した人にかわいそうだとコメントすることに対して批判をする人は、その人自身が、ガンにかかった人に対して「かわいそうだ」と思っていることになる。そうでなければ、どうして批判なんかできるだろう。堀ちえみに対して同情している、かわいそうだと思っているからこそ、「かわいそうだ」と言う松嶋尚美を批判できるのである。コメント内容に共感できなければ、そもそも批判などできるはずもない。つまり、批判者というのは批判対象と同じ穴のむじななのである。

村本氏の場合も同じで、浪江町なくなるよ発言に対して批判した人は、その人自身が、浪江町がなくなると思っているのである。思っているけど言ってはいけないこと、それを言ったから失礼ということになるのであって、もともと自分が思ってもいないことだったら、他人がそう言ったことに対して反応するはずがない。つまり、村本氏の発言を批判した人も、村本氏と同じ思いを抱いていることになる。

わたしは思うのだが、堀ちえみに対する松嶋コメントを批判したくなる人は、かえって、堀ちえみの心情を、松嶋尚美以上に理解できていないのではないか。ガンを公表するような人が、それによって世間から同情を受けるであろうことを知らないはずがない。それを乗り越えて公表しているわけである。松嶋尚美のような反応などは、彼女にとって折り込み済みのことだろう。彼女からしてみれば、予想通りで特段面白くもないことではないだろうか。それで済めば大してうるさくもないものを、コメント批判者が面白おかしく取り上げることで、うるさくなる。彼女にとって、どっちがより迷惑か。

批判者というのは、批判することで何か良いことをしたと信じ込んでいる。自分が同類であることも知らず、善行を為していると信じて批判しているその様は、滑稽極まる。

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