小賢しさを捨てて

以前、真面目な人か、バカな人が好きだと書いた。いや、実は書いたかどうか覚えていない。書いたような気がする。まあ、どっちでもいい。

真面目な人とは、人生の絶体絶命の真実に向かい合おうとしている人のことであり、バカな人とは、現にそれを生きている人である。それに対して、人生を解釈し利用しようとしている人は、小賢しい。こういう人間は嫌いである。合わない。

ところで、あることを書くということは、書いたことを書いた自分に対して当てはめてみることでなくてはならない。書き手には書いた物に対する責任は無いけれど、倫理がある。俗に言う、人の振り見て我が振り直せ。

自分の好き嫌いを自分自身に当てはめてみたとき、どうも、このわたしにも自分が嫌っている部分である小賢しいところがあるのではないかと気がついた。人生を好き勝手に解釈して利用しようとしているところが。いと情けなきことかな。

しかし、認識できなければ矯正もできないのだから、まあ、良しとしようじゃないか。良しとして、より真面目になるよう、あるいは、よりバカになるよう、心がけよう。……だが、こういうような心がけかたそれ自体が小賢しいということになれば、事態は複雑化する。

シンプル・イズ・ベストと人はよく言うようだが、複雑なものの複雑な部分を見ないようにすれば、そりゃ何でもシンプルになる。シンプルなのは、それを見ている人間の頭の方である。現実の方ではない。

現実が複雑であろうがシンプルであろうが、それに向かい合い、それを生きること。それがわたしの望みである。しかし、これは、語らず、書かず、ただ生きている多くの人が、すでにして獲得しているものでもある。

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