死んだら負けという単純な価値観 2

愛媛のご当地アイドルが自殺した事件に関して、ある大物芸人が、「死んだら負け」と発言したことが、ちょっと騒ぎになっている。

これについては、昨日書いたのだけれど、今日は別の方向から、この発言を取り上げてみたい。

昨日も書いたことだが、わたしは、彼の発言の当否を吟味したいわけではない。彼の発言に対しては、賛成する人もいれば反対する人もいるようだ。ネットの記事によれば、反対の声の方が大きいということだが、本当にそうなのかは、統計を取ったわけでもないだろうから、分からないことだろう。

まあ、それはそれ。

わたしが取り上げたいのは、彼の発言内容の当否ではなく、彼の発言それ自体の意味である。

「死んだら負け」という彼の発言は、現にそのアイドルが自殺したあとに為されたものであって、事後のものである。彼の発言は、そのアイドルの自殺をなかったことにすることはできない。いくら彼がそう言ったところで、そのアイドルが生き返ってくるわけではない。

そんなの当たり前だろう、と人は言うかもしれないが、この当たり前さについてちょっとだけでもいいので、思いを巡らせてもらいたい。

事後に何事かを発言したとしても、その発言はその事件を覆せるわけではない。だとしたら、その発言はどうして為されるのだろうか。

これに対しては、今後、そのアイドルと同じように自殺を考えるかもしれない人を止めるためだ、とこう答える人がほとんどだろう。そして、それはその通りである。その通りであるということが、現に起こったその事件に関しての、その発言の無力さを表している。

起こったことというのは取り返しがつかない。あとから、やいのやいの言っても、もう手遅れなのである。コメンテーターは、それが仕事なのだから、まあ、やらせておくとしても、市井に生きるわたしたちは、その手遅れさというものを、しっかりと感じ取ってもよいのではないか。

ある出来事についてする発言は、その出来事を止めることも、変えることもできない。ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ。起こったことを語ることは、起こったことより常に一歩遅れるのである。

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