「別れても好きな人」は、「別れたから好きな人」かもしれない

ここ数日、酒を断っている。もういい年だし、酒を飲んで憂さを晴らしている場合ではない、酒を飲む時間をもっと有意義なことに使うのだ! ……などと、天高く拳を突き上げてはいない。単に、飲み過ぎて、舌が荒れたので、それが治るまで飲まないようにしたというだけのことである。

舌が荒れると大変である。何を食べるにせよ、おっかなびっくり食べるので、食事がどうも楽しくない。「みんなは食べるために生きているけど、ぼくは生きるために食べている」とは、ソクラテスの言葉だが、そのソクラテスにしたって、食事の意義を栄養補給にのみ求めていたわけではないだろう。栄養補給だけでいいなら今後毎食点滴でもいいですよねと言われたら、彼も断るのではないか。

さて、舌が荒れていないときは、舌が荒れていない状態など普通だと思っており、なんら大事なことだと思っていなかったわけだけれど、いざ舌が荒れてみると、舌が荒れていないという状態が素晴らしいことだと分かる。いわゆる、失って分かる価値というヤツである。

この「失って分かる価値」という言い方に、ちょっと注意してみたいのだが、失って分かった価値あるものというのは、失う前に分からなかったそれと本当に同一のものなのだろうか。舌が荒れたときに分かった舌が荒れていない状態と、通常の時の舌が荒れていない状態は、果たして同じなのか。

舌だとちょっと分かりにくいかもしれないので、別の例を出そう。たとえば、あなたが誰かと付き合っていたとする。その人とある程度付き合っていたわけだけれど、出会いがあれば別れがあるのが世の常、ある時、別れたとする。すると、途端に、彼、もしくは彼女の本当の価値が見えた気がして、別れを後悔することになる。そんな経験は無いだろうか。

ここで、付き合っているときのその人と、別れたあとのその人は本当に同じ人なのだろうか。もちろん、同じ人だ。彼、もしくは彼女が、あなたと別れることによって、豹変することなど普通はあり得ない。しかし、である。たった一つだけ確実に彼、もしくは彼女に訪れた変化がある。それは、あなたと別れたというそのことである。

これは小さなできことだろうか。あなた以外の人にとってはそうである。しかし、あなたにとってはそうではない。あなたと付き合っているその人と、あなたと別れたその人では、まさにその「付き合っている」と「別れた」というその点において、別人に映るはずである。あなたは、別れたあと、その人の本当の価値を知ったわけではなく、その人のことを、あなたと付き合っていたときのその人とは別人として見ているだけのことである。

さて、そうすると、実は、その人の方が変わったと言うよりは、あなた自身が変わったと言った方がいいのかもしれない。別れによって、「その人と付き合っているあなた」から、「その人と別れたあなた」に、変わったわけである。価値観というのは価値主体と切り離すことはできない。ある人にとって価値あるものの価値は、その人がそれを価値だとみなすことによって成立する。「その人と付き合っているあなた」と、「その人と別れたあなた」を、それぞれ別の価値主体だとすると、「その人と別れたあなた」には、その人が価値あるものに見えたとしても、「その人と付き合っているあなた」からは、その人が価値あるものに見えた可能性は無いということになる。

昔の歌謡曲に、「別れても好きな人」というのがあるが、これは、もしかしたら、「別れたから好きな人」というのが正しいのではないだろうか。その人の方は何も変わっておらず、その人のままであるのに、別れをきっかけにして、あなたが変わった。あなたが変わったから、その人が、別れる前とは別の魅力ある人のように見える。

失って分かる価値というのはこのようなことではないだろうか。つまり、あちらは何も変わってはいないのに、こちらが変わったことによって、あちらが変わっているように見えるというそのことである。いや、事実それは変わったのである。舌が普通の状態であることの素晴らしさを、わたしは今、嫌というほど味わっている。しかし、それは、現にそうなってみないと分からない。

喉元過ぎれば熱さを忘れる、という諺があるが、なぜ忘れるのかと言えば、愚かであるというよりは、喉元に熱さを感じていたその人と、喉元を熱さが過ぎたその人では別の人だからだろう。

大分舌も治ってきたし、そろそろ飲もうと思う。

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