別れた言葉に再会するとき

言葉に再会するときがある。昔に出会って別れたはずの言葉が、もう一度現われるときが。そのとき、その言葉はまるで、昔日の少女の面影を残しながらもすっかりと大人びた女性のように、まったく異なった様子で現われる。

朝《あした》に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。

論語の一節である。わたしは、この言葉とどこでいつ出会ったのだろうか。もう覚えていないが、おそらくは、小中学校の国語の授業だろう。初め習ったとき、そうしてその感想は長く続くことになるのだが、どうもあまり面白味の無い言葉だと思った。

朝に人間として一番大切な生き方を知ることができれば、その夕方に死んでも悔いは無い。

そのような意味で習っただろうし、習ってから何度か吟味しても、どうもそのような意味しか無さそうだった。格調は高いけれど、そんなことは誰しも言おうと思えば言えるわけであって、物足りない言葉だと思った。

しかし、この頃、不意にこの言葉の本当の意味が了解できたように思われる。もちろん、わたしが了解したと思われるその意味は間違っているかもしれないが、どうもわたしにはそのように思われてならない。それは以下のような意味である。

道とは人間が生きる根本原理である。それ無しでは生きることができない真理であって、それが崩れると全てが崩れるようなこの世で一番大きな台座のようなものである。単に生き方を表すにとどまらない。その道を「聞く」、つまり知ることができれば、自分という存在が、その生死が、どのような前提の上に成立しているかを知ることになる。それを知ることができたら、自分の生死が問題になるはずがない。だから、死んでもいいということになる。この言葉は、人間はどのように生きるべきかという倫理に関する話ではなく、人間はそのように生きているという論理に関する話である。

わたしはこの言葉を再解釈しようとしたわけではない。この言葉の意味を改めて考えてみてそのような意味だろうと了解したわけではなく、仕事帰り、冬の夜道を、生きるとか死ぬとかその手のことを考えて歩いていたときに、不意に、このような意味をまとったこの言葉によぎられたのである。

遠い昔に別れたはずの言葉。あるいは、それは別れたわけではなかったのかもしれない。ずっと、わたしのそばにいて、わたしを見守ってくれていたのだろう。そうして、言葉の方で、わたしがその言葉が真に意味するところに気がつくのを待っていてくれた。どうも、そんな気がしてならない。

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