誠実にウソをつくこと

色々と偉そうなことを書いているけれど、言うは易く行うは難し、なかなか実行は難しい。「事に当たって気持ちは変わるから、何かを行う前に心配するだけ損」というようなことを以前書いた。書いたわけだけれど、実際に、一昨日あたり、ちょっとやりたくないことに当たったとき、ストレスで胃が痛くなった。事の前にがっつり心配しているわけである。書いたことが行われていない。やれやれ。

こうなると、書けば書くほど、ウソをつくことになるわけで、もとからウケのよい文章を書いているわけでもないのに、そんなウソつきの書くことを誰が読むのかということになって、ますます読まれないことになる。ならば、書かずに生きよ、ということになるかもしれないけれど、そうすると人生は長すぎるんだな、これが。

長すぎると言ったって、いつまで生きているものか、それだって分からないわけで、こうして、また一つウソをついたことになる。とはいえ、分からん、と言って済ませてしまえば、それ以上、話にならないわけで、書くことを前提とするとしたら、それでおしまいというわけにもいかない。

いっそのこと、わたしはウソを書く、と居直ってしまうのはどうか。ウソを書くというこの言明は、果たしてウソになるのか、本当になるのか。例の、ウソつきパラドクスである。ウソであれば、本当のことを書いたことになり、本当であれば、ウソを書いたことにならない。

居直ることもうまくないとしたら、せめては、わたしの書くことが本当ではないかもしれない、ということだけは、認めておくことにしよう。誠実なウソつき。「お前の書くことはウソだろう」と言われれば、わたしは、いつでもそれを認める用意がある。ただし、人のあることに対するウソを見破れる者は、その人よりもよりよくそのことに対して知っている者である。そのような人が、わざわざ、そのような言明を行うということはないかもしれないけれど。

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