ありのままを見る
見ることの難しさ
昨日、現実の中に自分が望んだものを見ることと、現実のありのままを見ることの違いは重要だと書いた。しかし、望んだものを見ることは簡単だが、ありのままを見るということは、言うほど簡単なことではない。「わたしは物事をありのままに、客観的に見ることができる」と簡単に言う人がいるが、こういう人はまずもって信用しないことにしている。ありのまま見るということがどういうことか知らない輩である。ありのまま見ることは簡単なことではない。簡単なのは、そいつの頭の構造である。
「うちの子がこんなことをするなんて思ってもいなかった」というのは、非行に走った子どもに対する親の述懐だが、よくよくと見ているはずの子どもの中にも、親が見えていなかった部分があるということである。このような親に対して、親のくせに我が子のことも分からなかったのか、と責めるのはたやすいが、それだけ、見るということが難しいということを証していると考えることができる。
見ることと体験すること
ありのまま見るためにはそれを実際に体験することだ、という意見もある。本では分からない、書を捨てて街に出ようという具合である。ちょい待ち。確かに、たとえば、ここに恋愛漫画や恋愛小説をたっぷりと読んではいるが、実際の恋愛をしたことがない人がいたとして、その人は恋愛をありのまま見ているとは言えないかもしれない。その人が見ているのは、字面の恋愛である。しかし、それでは、実際に恋愛をした人が、現実の恋愛をありのまま見ていると言えるかどうか。その人が体験した恋愛というのは、あくまで、その人が体験した恋愛であって、それによって、「所詮恋愛なんて独占欲のぶつけ合いだろ」と見なすに至ったとしたら、それは単に、その人の体験した恋愛が所詮は独占欲のぶつけ合いだったに過ぎない。体験は強烈なものであり、それによって人はありのままを見ることもあるが、自分の見たいものを見ようとすることにもつながる。こうなると、体験をしている人の方が、本で読んだだけの人よりも、あることについてより正確に見ている、などと無邪気に言うことはできなくなる。
見ることと疑うこと
ありのままを見るためにはどうするか。予断を排して見ろと言われることがあるが、いくら目を大きく見開いても、その目から予断を排することなどできやしない。なぜなら、予断というのは、つけたり外したりすることができる眼鏡じゃないからだ。見るという機能の中にすでに組み込まれているものだ。見ることが、そのまま予断を持って見るということなんだ。予断という言い方が嫌なら、それを、文化や宗教や社会慣習や人生経験や性格と言い換えたっていい。
ありのままを見るためには、自分が予断を持っていることを認め、本当に自分がそのありのままを見ているかどうかを疑うことだ。すなわち、「○○とは△△である」と考えたときに、同時に、「いや、○○とは△△じゃないかもしれない」と考えるということだ。肯定と否定を同時に行うことだ。そんな面倒くさいことはしたくないというなら、見たいものだけ見て生きればいい。だが、見たものに文句は付けるな。それは、自分が望んだものだ。
見ることと言葉
人が何を見ているかは、その人の言葉で分かる。そうして、同時に、何を見ていないかも、その人の言葉で分かる。文は人なりとはこの意味だ。言葉からはその人が見ているものが見える。あなたの人となりは、すべて、あなたの言葉にあらわれている。言葉は単なるコミュニケーションツールじゃないということだ。だから、言葉は慎重に発しなければいけない。沈黙は金なりとはこの文脈だ。言葉にできないことは言葉にするな。言葉にするなら覚悟を決めろ。覚悟の無い言葉は、そのまま覚悟の無いおのれを表わしている。
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