年頭所感 ~noteは読むより書こう~

年が明けたので、何かそれっぽいことを書こうかなあと思ったのだけれど、特に何も思い浮かばない。昨年は、このnoteでほとんど物を書かなかった。いや、毎日書いてはいたのだけれど、感染者が何人出たとか、それに関するニュースのみ書いていた(これは、今年も続ける予定である。)年も変わったことだし、それ以外のことも、また何か書いてみようかな、と思う。

年も変わったことだし、と書いたのだけれど、年が変わったって何が変わるわけでもないということは言える。元日だって、365日のうちの1日に過ぎないと、そう言えば言えるわけである。しかし、こう、なんとなくそれが違うように思われるのは、慣習の力なのだろう。元日は、世の中では、おめでたい日だということになっている。この慣習の力というのは中々侮れないもので、一月一日は、365日のうちの1日に過ぎないにも関わらず、なんとなく、どうしても、おめでたいという気持ちがする。あるいは、これを、ひっくり返して、門松は冥土の旅の一里塚、と皮肉った坊主がいたが、これだって正月を特別視しているということに関しては同じことである。だって、そんなことを言ったら、日々日々、毎日毎日が、冥土の旅の一里塚ではないか。「このクソ坊主、おめでたいときはおめでたいと言っておけばいいのに!」とそんな風に思わせるのも、やはり慣習の力である。

坊主の話で思い出したが、禅語の「日々是好日」について、わたしなりの解釈を施したnoteが、好評をいただいている。

「日々是好日」の意味

禅語の解釈なんて、興味ある人がいるとは、noteのユーザー層は、本当にインテリだなあと思う。需要があるなら、禅語とか哲学用語とかの解釈をしてみてもいいかもしれない。ところで、ああいうものの解釈が当たっているかどうかの判断のコツを述べておくと、その解釈が日常から乖離した一段高い境地みたいなものを目指すようなことを勧めるものなら、それらは全部間違いである。そうではなくて、日常に適用・応用できるもの、「そうだったのか」と深く腑に落ちたり、「今日からそうしよう」とすぐに実行できるものであれば、その解釈は正しい。正しいというか、そうでなければ、その人にとっては意味が無いと言うべきか。

今年は、ほとんどnoteを読まなかった。他人の書いた文章を読むと、それで何かをした気になりがちである。このnoteを読んでもらっておいて言うのもなんだけれど、他人の書いた文章をただ読むことには何の意味も無い。ただ読むのではなくて、読んだことで何らか生活を変えなければならない。読書家がいまだ評価されているようであるが、周囲に読書家がいたら、一度訊いてみたらいい。「人生で最も大切なことは何ですか? 人生の意味って何ですか」と。答えに窮するようであれば、その人は、単なる読書という趣味を行っているだけのことであって、意味のある読書をしているわけではない。特に評価するには及ばない。

他人のnoteを読むのではなく、自分のnoteを書いた方がいいだろう。でも、そうするとおかしなことになる。だって、その書いたnoteというのは、当然に、他人に読まれることを目的としないものになるわけだから。いや、そうではない。そのnoteは読まれるのである。自分自身に。自分から自分へのnote。そういうnoteにしか、そういう書き物にしか、本来は価値は無い。

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