人と真面目な話はしない

以前、あんまり人と話したいと思わないということを書いたが、話そうと思えば話せないわけではない。現に、会社の上司や同僚とは、政治経済の話とかなんとか、いっぱしの社会人らしく、ちょこちょこと話してはいる。まあ、そういう世間一般的などうでもいいようなことを話す分には問題は無いのだけれど、話が、もっとちゃんとしたことに及ぶと、途端に話す気が無くなる。ちゃんとしたことというのは、人生に関することである。あるいは、この世界の根源について。

そんなことを話す機会はあんまり無いのだけれど、何かの拍子にちょっとでもそっち系の話になると、口が重くなる。なぜかと言えば、話そうとしても、話す対象について、よく分からないからである。人生について、世界について、知ったかぶって書いてはいるけれど、本当は全然分からない。何一つ知らない。しかも、「人生とは――」と得意げに話している相手についても、こいつは本当に正しいことを言っているのだろうかという疑いが抜きがたくあらわれ、こうなると、こちらも話せないし、あちらの言葉は疑わしいしで、一体何の時間なんだということになるわけである。

そういうわけで、人と真面目な話はしないようにしている。真面目なことというのは、一人一人が向かい合うべきものであって、それについて話し合って、納得したり反論したりするべきものではないだろう。中学生の討論会ではないのだ。話し合ってなんとかなるものとは、話し合ってなんとかなる程度のものであって、それ以上のものでは決してない。それ以上のものを求めたければ、考えるしかないのである。そうして、考えるということは、自分が考えるということでもある。自分は他人ではない。それが自分であるというそのことであれば、自分ならぬ他人の考えをありがたがったって、しょうがない。

この理屈がなかなか通じないだろうことは分かっている。真面目な話というのは自分で考えるのではなく、それに関して権威がある人の言っていることを聞いて、理解することだと思っている人がほとんどだろう。どこそこの哲学者がこう言っている、社会学者がこうのたまっている、心理学者がこう主張している、などなどなど。それら他人が言っていることを参考程度に聞いておくのはいい。しかし、そういうものを信じ込んではいけない。それは真実ではない。それは彼らにとっての真実であるかもしれないが、あなたにとっての真実ではない。あなたにとっての真実はどこかの名探偵に発見してもらうわけにはいかないのだ。自分で発見するしかない。あらゆることを研究したが何一つ分からん、と慨嘆したファウスト博士は、ただ一つ、「自分で考える」というこのことをしなかったのではないだろうか。

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