ニーアオートマタ 機械生命体とアンドロイドは電気仕掛けの夢を見るか
ヒト、機械生命体、アンドロイドの差異について(1週目のパスカルの村まで行った時点での感想)
砂漠地帯で機械生命体が感情があるかのように行動し、人間のような機械生命体を生み出した時、プレイヤーは一種の不気味さに似た感情を覚える。これはなぜか。私は一種の不気味の谷現象が起きているからだと考える。
「不気味の谷」は“人間に近く見える”人に似せた像に対する人間の感情的反応が否定的になっている部分である。(Wikipediaより引用)
機械生命体とヒトの違い
ロボットとヒトを区別するものとして主に上げられるものは感情の有無や見た目などの構成要素、生殖機能の有無である。
その一要素である感情を機械生命体の放つ「ナゼ タタカウ、コワイ シニタクナイ」といった音声や逃げ惑う姿から感じ、感情があるのではないかと疑いを抱き始める。しかし、人間とはかけ離れたガラクタのような見た目、カタコトの言葉から9Sのように人間の模倣だろうと自分に言い聞かせるようにして己を納得させ、敵として殲滅するのである。
しかし、その甘い考えを覆す瞬間が来る。砂漠地帯でのヒト型機械生命体の誕生の瞬間だ。
あの場面での不気味さは生殖機能を持たない機械生命体が人間の交尾の真似事をしているところから始まる。生殖器のないドラム缶の腰を打ち付けあい、乳房も持たないのに求めるかのように胸に口を当てる。その滑稽ともいえる異様さが機械生命体の行動が人間の模倣であることを際立たせる。この時点では、子をなすことの出来ない機械生命体があたかも人間のように交尾の真似事をしていることが不気味なのだ。
しかし、その不気味さが逆転する瞬間が訪れる。機械生命体を倒し始めると生きるために機械生命体は逃げ惑い、コノママジャダメと一つに集い核を形成していく。そして、その中からヒト型の機械生命体が誕生するのだ。無意味な性への執着から一転して生への執着を見せ、子を誕生させる=生殖機能を持つのである。しかも、生まれてきたものはガラクタのような機械生命体ではなく精巧なヒト型の機械生命体である。
その事実を認識した瞬間、先ほどまで感じていた機械生命体がヒトの真似事をするという不気味さとは全く違った不気味さが生まれる。機械生命体がヒトに近づいたという一種の不気味の谷現象からくる不気味さだ。ただ、この時点ではまだ感情を有していると言えるのかという点について疑問が残っている。そのため、不気味さは生殖機能を有したことに対する嫌悪感に似た感情に留まっている。
しかし、その後の展開で機械生命体の感情に焦点が当てられ始める。
次のストーリーで出てくる遊園地の歌姫型機械生命体。詳細は明かされていないため行動原理は分からないが、着飾る、歌うという行動がみられる。このどちらも他者に向けたアイデンティティの開示方法であり、他人指向型の行動であることが見て取れる。つまり、自意識というものがあり、かつ美しさへの執着から他者に自身を認めてもらいたいというエゴが存在していると考えられる。
そして、パスカルの村では平和を愛するという主義を持っており、争いは好まない機械生命体の存在が明かされる。機械生命体は地球の人類を滅ぼし、アンドロイドを抹殺するための目的を持った道具であるはずである。にもかかわらず、争いを好まないことは道具としての役割を放棄し意思を持っていることに他ならない。さらに平和を愛するということは痛みや死を恐れることである。恐怖という感情を持ち、死という自己の喪失への恐れがあることは自身という唯一性を認識する自我を持っているということである。
このようにプレイヤーは徐々に機械生命体の存在について否応なく考えさせられていき、自我や感情といったものが存在するのではないかと思い込み始めるのである。そうして、いつの間にか機械生命体とアンドロイドの境界があいまいになり、初めは別の存在として考えていたものを、見た目が違うだけで同じような存在だと錯覚し始めるのである。
アンドロイドについて
ヒトとニーアオートマタにおけるアンドロイドの差異は何かと問われれば、体の構成要素や生殖機能の有無、そして記憶のバックアップシステムが上げられる。
ここで注目したいのがバックアップ機能だ。バックアップ機能があることでアンドロイドには肉体の死=死という概念がない。物語の冒頭でコア同士を接触させて大型機械生命体を破壊した際も素体は破壊されたが9Sのバックアップにより2Bの記憶の連続性は保たれていた。9Sはバックアップが間に合わなかったことで記憶の一部を失っているが、「さん付けはいらない、ナインズと呼んでほしい」と発言するなどの行動や個性の一致から連続性のある同一個体であると見なすことが出来る。また、自爆機能もデフォルトでONであることが示唆されることからも、あくまで素体は肉体という器でしかないという考えが見て取れる。この肉体=器という考え方は肉体を道具化しているとも言える。
さらにアンドロイドは感情を持つことを禁止されている。しかしながら、冒頭でのやり取りやオペレーターの恋愛話などから感情を持っていることは明らかである。そもそも、感情を持つことが禁止という決まり自体が感情を持っているという前提に立っている。バンカー内での会話を見ると感情を禁止しているという割には初任務で緊張していたり、2Bに憧れていたりと感情豊かである。
では、禁止されている感情とは何か。2Bの発言から作戦遂行に邪魔になる情や任務に対する疑念であると考えられる。
そのため、アンドロイドは感情を持ちながらも行動原理は機械生命体を倒すための道具として規範や任務といった単純なアルゴリズムに沿っている。
このようにしてみると、アンドロイドはヒトにとって都合のいい道具として存在しており、アンドロイド自身も当然のようにそれを受容している。
感情を持って生まれながらもヒトの道具として動くアンドロイド。
感情を持たずに生まれながらも自我を芽生えさせ道具としてではなく一つの生命体として生きようとする機械生命体。
そして、依然として姿を現さないヒト。
恐らく、このゲームはアンドロイドが機械生命体を殲滅してエンドという単純な構造のゲームではないだろう。
アンドロイドと機械生命体とヒト。境界の曖昧な三種族が最終的にどこに収着するのか見届けていきたい。
入れる場所のなかったメモ書き
機械生命体にパスカルという名前がついている。恐らく哲学者のパスカルから取ったものだと思われるが、彼の残した”人間は考える葦である”という言葉は人間の尊厳の全ては考えることにあるとする考えであり、感情と考える力を持ちながらそれを放棄しているアンドロイドに対する痛烈な皮肉になっている。また、同時に考える機械生命体の尊厳を肯定する言葉でもある。
しかし同時に、哲学者のパスカルは『パンセ』で
「あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。それは不可能であり、ほかの秩序に属するものである。あらゆる物体と精神とから、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、ほかの超自然的な秩序に属するものである。」
とも語っており、アンドロイドや機械生命体の持つ思考がヒトの思考と同じ秩序に属するものであるか、というゲームからの問いかけも含まれているように感じる。
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