愛てへ★ 考察ノート 男性の自己受容をめぐる物語としてのオカマコメディ①
noteをご覧の皆様 おはこんばんにちは。
春日陽向です。(丹羽総理風に)
特にフライヤーに名前が載っていたわけでもないので、念のため自己紹介させて頂くと、先日上演された、劇団ぺりどっと第9回公演「愛で時空を超えたら戻れなくなっちゃった。てへ★」の演出助手をしていたものです。
終演から少し日が経ってしまいましたが、私の思う「愛てへ」の魅力について文章にして残しておきたいと思い、筆を執った次第です。
まだご覧になられていない方にも伝わるように書くつもりですが、テーマを述べるにあたって重要な部分以外はかなり省略させていただくことになると思います。もしご興味を持っていただけたなら、このあと本番映像の販売も予定されているそうなので、そちらもチェックしていただけると嬉しいです☺️ ネタバレOKな方のみ、この先へお進みください。
※また、この文章は私の個人的な考察ノートですので、石川君の脚本意図とは別のものとしてお読みいただけますと幸いです。予めご了承下さい。
では、さっそく。
1、主人公「王城星矢」の性をめぐる自己認識について
この節では、主人公「王城聖矢」の性の在り方について言及していきます。
ですが、まずはその前に、「愛てへ」のあらすじを確認しましょう。
主人公「王城聖矢」は、昼間はエリートサラリーマン、夜は性的マイノリティたちの集うパブ(ニ丁目のスナックのようなイメージ)のホステスとして働く、二面性を持った人物である。
職場のイケメンに恋をするも、間接的に「オカマはない」と言われ、現代の性規範に絶望した聖矢は、パブのオーナーの作った「ラブイズオーバー」というタイムマシン(未来で恋人を見つけ、両想いにならないと帰ってこられないというトンデモアイテム)を使って未来にとぶ。しかし、千年後の未来は、「性別」という概念のなくなった「ジェンダーロスト」の時代だった。
「男性」のいない「ジェンダーロスト」の時代では、「男性と愛し合いたい」という自らの願いが果たされないと悟った聖矢は、なんとか過去に戻ろうと奔走し、最終的にオーナーの子孫である「丹羽総理」が出演している恋愛バラエティ番組「ラブサンクチュアリ」に参加することになる。しかし、そこで聖矢の「運命の相手」として紹介されたのは、見た目が女性の「ケイゴ」だった。
はじめは「女を好きになるなんてありえない!」と拒絶する聖矢だったが、紆余曲折を経て、性的な部分には葛藤を残しつつもケイゴに惹かれていく。
しかし、物語のクライマックスで、丹羽総理がこの世界を「ジェンダーロスト」にした張本人であり、ケイゴも聖矢を始末するべく派遣された、総理の手下であったことを知る。
丹羽総理に銃口を向けられ、死を覚悟する聖矢。しかし、ケイゴが自らの命と引き換えにして聖矢をかばい、彼(いや彼女?)の想いを受け止めた聖矢は、その思いを糧に過去に戻ることに成功する。
性別という概念が残る現代に戻った聖矢は、意を決してイケメンに思いを告げるもあえなく玉砕。しかし直後にハンカチを差し出してくれた女性は、ケイゴの見た目をした「ノゾミケイコ」だった。突然の再会に驚き、喜びを隠せない聖矢。
二人の今後を期待させつつ、物語は幕を閉じる。
と、ざっくり、こんな感じでしょうか。
そうか、ギャグパートを省略するとこんな真面目な話だったのか…(困惑)
では、あらすじを確認したところで本題に入っていきます。
先日、お客様に回答していただいたアンケートを拝見させて頂いたところ、聖矢を「ステレオタイプのオカマ」として認識されている方が多かったようでした。もちろん作中で「オカマ」という言葉が繰り返し使われていたので、作品を読解する上でそのように理解していただいても何ら問題はありません。
しかし、実をいうと私は読み合わせ当初から、
そもそも、王城聖矢は「ステレオタイプのオカマ」なのだろうか?
という疑問を持っていたので、今回はその辺りについての私の考えを述べておきたいと思います。この考察では、いわゆるセクシャルマイノリティの問題とは別の角度から見た「愛てへ」を紹介させていただくつもりなので、楽しんでいただければ幸いです。
と、ここから性に関する話が少し複雑になるので、先ほど挙げた「オカマ」という言葉について、以下の専門用語を使いながら解像度をあげます。
①身体の性 ひらたくいうと、体の性。 外性器がどちらかで区別される。
②性自認 ひらたくいうと、心の性。自己認識の在り方。
これが身体の性と合致しない場合、性別違和となる。 ※性自認が男でも女でもない、ということもある。
③性的指向 ひらたくいうと、男と女どちらを好きになるか。 ※どちらも好き、あるいは、どちらも好きではないということもある。
④性別表現(「らしさ」の性 服装、仕種をどのように振る舞いたいか)
上記を踏まえたうえで、聖矢の性の在り方を整理していくと、
彼は作中において、自らの性について「体は男だけど、心は女なの」と語っており、ここから読み取ると、彼は①身体の性が男性、②性自認が女性、③性的指向が男性、④性別表現が女性、ということになります。つまり、身体は男性だけど、性自認はシス女性(いわゆる典型女性)だから男性が好きだし、女性的に振舞いたい、ということですね。
そしてこのような前提に立つと、最終的に現代に戻った聖矢が、女性である「ノゾミケイコ」との再会を喜び、二人の関係性の発展を予感させるという本作の結末は、聖矢が自らの性的指向の問題を超えて、相手を「男」や「女」ではなく、「人間」として愛せるようになったことの証左であるといえるでしょう。多くの方はそのように理解されたと思いますし、私もこの解釈は概ね妥当だと思います。
しかし、先ほど述べたように、私はそもそも、聖矢の性をめぐる自己認識というものが、実が当人のいうような「体は男だけど、心は女」という言葉ほど単純でなく(いやそれも十分複雑かもしれませんが)、もっと複雑なものだったのではないかと考えています。
その根拠は、以下に引用する、聖矢の自己紹介中のセリフです。
完璧な人間など、この世には存在しない。 完璧を装うのにはとんでもないストレスがかかる。
はけ口は必要よ。私の場合はこれ。(ドレスチェンジ) 私は定時で仕事を終えると、ママのお店に源氏名ローズの名で舞い降りる。
この部分に注目すると、聖矢が身体的には男性であるにもかかわらず女装をして、つまりいわゆる「オカマ」となってパブで働いているのは、あくまで「ストレスの捌け口」としてであることがわかります。
そして、そのストレスの原因は何かというと「完璧を装うこと」なのです。「装う」とは、「本来はそういう人間ではないのに、そのように振る舞っている」ということですね。「演じている」と言い換えることもできます。つまり彼はかなり無理をして、周囲から期待される「完璧」な自分を装っているのです。
また、この場面で聖矢の口から解説される彼の「パーフェクトな男」ぶりは、「仕事は完璧」「社内評価は上々」「女にはとにかくモテる」というもので、これらはすべて「強い男性」を象徴するものです。
つまり、聖矢が極度のストレスを感じているのは、性自認が女性なのに社会で男性を演じなければならないことではなく、あくまで男性として「強い男性」を演じなければならないことなのです。ストレスの捌け口が「女装」であることを除けば、ある意味聖矢は「男らしさ」を演じるのに疲れた、言い換えれば「男性としての生きづらさ」を抱えた、ごくごく一般的な男性であると言えるのではないでしょうか。
これらを踏まえると、彼の女装、つまり女性を演じるという行為は、「男性性」から降りるための行為としても解釈することができます。女性になることさえできれば、彼はもう「完璧」な「強い男性」を演じる必要がなくなるからです。彼にとって女性を演じることは、自らの男性性を傷つけ、ある種社会の中で「免罪符」を獲得する行為として機能しており、彼の「女装」は逃避行動の一環であったといえるでしょう。
こうした「男性性から降りたい(あるいは降りた)男性」は、「バ美肉おじさん」(バーチャル美少女受肉おじさん)などの例で、近年現実社会でも観測されていますよね。(ここでの詳細な説明は省きますが、バーチャル空間で「女性」になる、というアレです。)
つまり聖矢は、「ステレオタイプのオカマ」、いわゆる従来の性別違和者とは全く異なったアイデンティティの持ち方をしているキャラクターであるといえます。彼の性的指向や女装という振る舞いは、先天的なものではなく、自己防衛のために後天的に発生したものであるというわけです。(ものすごく雑にいうなれば、私は聖矢はストレスによって「メス化」した男性であるという解釈をしています)
2、物語の結末が意味するもの
聖矢の性アイデンティティについて整理したところで、ここからはそれを踏まえて「愛てへ」結末部が象徴するものについて言及していきます。
まずは、結末部に言及するため、作中の描写から彼の恋愛観を考察します。
聖矢は降りしきる雨の中で「私を一生愛してくれるイケメンを探しているんです」と叫びます。このセリフからもわかるように、彼の欲望は「誰かを愛したい」というものではなく、あくまで「自分を愛してほしい」というもので、彼の恋愛観がかなり受動的なものであることがわかります。
また先ほど述べたように、聖矢が「強い男性性」を発揮することに疲れ、そこから逃避するために「女装」をしていたと仮定するならば、彼が女性でなく男性に性的関心を抱いている理由も、自分が「男らしさ」を発揮する(男性としての責任を履行する)ことへの忌避からきていると推察できます。
このように考えると、彼の性的指向が男性に向いているのも、「男性として何かを施すのではなく、女性として施されたい」という思いの現れであり、彼の欲望が、自分は「男らしさ」から降りながら、他者に「男らしさ」を発揮されたいという複雑なものであると読み取ることができます。
(ちなみに、ケイゴの見た目が女性的であったように、おそらく「生殖機能や性差、性欲を失った人類」がうごめく未来にも、それなりに見た目が男性的な人間はいるはずなんですよね。それでも聖矢が「この未来では生きていけない」と感じたのは、見た目云々というよりも、文化的にも生物的にも「性」というものが失われ、精神的に「男性らしさ」を発揮できる人物がいない、ということがネックだったのではないかと考えます。)
しかし、聖矢はケイゴに命がけで守られたことで、つまり「強い男らしさ」を発揮されたことによって、欲望が満たされ、現在に戻ることができます。
もちろん、「何かを守ること」は「女らしさ」でもあるだろう、というご意見もあるでしょう。ただ作中において、聖矢はケイゴに傘を差し出された際に「男らしいところもあるのね」という言葉を口にしており、これが「雨から守ってくれた」ことを指しているとすると、聖矢の中で「何かを守ること」=「男らしさ」という図式が成り立っていても不思議ではありません。
そして現代に戻った聖矢は、「ノゾミケイコ」と再会します。第一節で述べたように、この結末によって、「愛てへ」は性別違和者(いわゆるオカマ)である聖矢が「男」や「女」という枠組みを超えて相手を愛せることになった物語と解釈することができます。
しかし別の見方をすれば、この場面は、周囲から期待される「強い男らしさ」に応えることに疲れ、「男性性」から降りようとしていた聖矢が、ケイゴの「強い男性性」に触れたことによって、「男として女性を愛す」ことを受容した(男性性を発揮することに肯定的になれた)場面と解釈することもできます。
つまり、「愛てへ」は、自身が「男性」であることを受け入れがたく思っていた聖矢が、女性の姿をしたケイゴに「男らしさ」を発揮されたことによって自らの「男性性」を回復させ、自分が「男性」であることと向き合うことができたという、「自己受容」の物語として解釈することもできるのです。
すみません、非常に長くなってしまいましたが、今回の考察は以上です
個人的に、先天的な性別違和を感じている人物(身体が男性で、性自認が女性、あるいはその逆の方)が、「後天的に性的指向を変えることは、ほぼ不可能なのではないか、、?」という感覚があったので(おそらく本作にモヤモヤされた方はそのあたりに引っかかられたのではないでしょうか)、「愛てへ」は「男性性回復」の物語として解釈した方が筋が通るのではないかと思い、色々書かせて頂きました。また聖矢のキャラクター性には、新規性があると思ったので、単に「ステレオタイプなオカマ」としてだけ見るにはもったいないかなと思った次第です。一応大学で、ジェンダー系の書物は読んではいるのですが、至らない点がありましたらすみません。
ちなみに最後の「自己受容」というのは、実は結末部の「オーナー」との「バニーに気後れがあった」「けど、〇玉をつぶされたことでふっきれた」というやりとりにも表れており、この作品の裏のテーマになっていたのではないかと思います。私は、こうした「自己の欲望と向き合い、自己の在り方について自己に責任を回帰させる」というスタンスは、石川作品の神髄だと思っているので(勝手に)、伝わるものがありましたら嬉しいです。
私自身は「男らしさ」「女らしさ」は存在していると捉えており、また先天的な違和などがない限りは、ある程度身体の性とその「らしさ」が一致していた方がよいだろうと考えている立場ですが、そのあたりについては、また別の機会に活字にしてまとめたいと思います。
よろしければまたお目にかかれますと幸いです。
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補足
そういえばタイムマシンの名前の元ネタとなっている
欧陽菲菲「ラブイズオーバー」の歌詞に
Love is Over 泣くな男だろう
私のことは早く忘れて
というフレーズがありますが、この曲は「女が男を送り出す」曲ですよね。
この曲を、未来での最後の場面に照らし合わせるならば、
ケイゴが聖矢を「男として」送り出したということになります。
ま、石川君がそこまで考えていたかはわかりませんが(笑)
ふと思いついたので、補足でした!
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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