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地方出身者の私が感じる「見えない壁」。

致死率の高いコロナがこんなに流行っても、私にとって致死率よりも景気の方が怖く、感染者数の推移を見てもどこか他人事だった。

コロナが落ち着いた先に一体どんな商売になるのか探しているような状況が続き医療従事者の人や体験談の人の記事を見て(やばいって思わないといけないんだろうな)と思う日々に慣れ始めたタイミングで、実家の犬が死んだ。

これをきっかけに「帰りたいと思っても帰れない透明の壁」が心をじわじわと浸食し、大きなダメージを与えられたことを知った。

私はキャリアカウンセラーであり、人の感情の機微を双方で理解し合いながら問いかけていくことが求められる仕事をしている。その為に、自分自身の喜怒哀楽を被験者として記録しているド真面目というか地味な趣味がある。自分の喜怒哀楽の変化、言語化がいつか相手の共感に使える気がして、引き出しを増やしている。

「仕事」が専門の私が専門外のことを書こうと思ったことはない。自信がない。だから、この体験記は「家にいよう!」を呼びかけることが目的ではなく、「命の尊さを共感する」ものにも出来ない。地方出身者が感じる「地元への想いと悲しさ」という整理しきれない感情を被験者として記録できれば良いなと思っている。

先駆けてコロナが始まった東京にいたことで

地元鹿児島に先駆けてコロナが始まった東京で、外出自粛が始まった。SNSで見る地元や感染者が少ない地域の皆が楽しそうに外出している様子をみて、本当に「いいね」と思っていた。春、桜綺麗だよね。こちらは見れないけど写真だけでも癒やされるね。病院が少ないことも、感染が広まったらすぐに病院がキャパいっぱいになりそうな高齢化社会なことも肌感覚で分かっている。だからこそ、広がらないで欲しい。と、単純に故郷に思いを馳せていた。

対照的に地元や実家からすると東京の危機的な状況が放送されまくり、家族や地元の皆から大丈夫?という連絡もすごく増えた。

家族や地元の皆との連絡はものすごく増えたけど、帰っておいでとは1度も言われなかった(これも優しさだと思う)。この頃、鹿児島で初めての感染者が出たというニュースが流れた。海外帰国者からの感染と言うことで、きっと地元の皆が頑張って防いでいたものが入ってきたがっかり感もあったのか、どこか皆イライラしている様子がSNSから伝わった。

「つるし上げられる」訳にはいかないという責任感

誤解を恐れずに申し上げると、排他的な方向に動く時の「地方の情報ネットワーク」は本当に恐ろしい。仕事の繋がりで挨拶しても、まず聞かれるのは「ご出身はどこですか?」であり、出身学校から自分の地域があぶり出される位に聞かれることも少なくない。「あの家の誰々は誰と繋がっていて、どんな仕事をしている」といった情報が悪気もなく流通している。それが排他的な方向に動く時、自分がこの状況でコロナにかかると直接的な家族の健康影響のみならず、家族の繋がり先から排他的な扱いを受ける風習が残ってるような危機感を感じる。

誰もがうっすら、「つるし上げられる訳にはいかない…」という都会とは違う責任感みたいなものを背負っている気がする。だから私も、コロナが流行りだしてからは帰りたいと思う事はあっても、帰ろうかなと思うことは1度もなかった。

そんなタイミングで、犬が死んだ。

そんなタイミングで、実家で飼っていた犬が死んだ。長く生きてくれた犬だった。でも急すぎた。最初は「えっ?」という驚きしかなかった。そして、連絡をもらってから3日目に、死んだ。気持ちの整理がつかなかった。世の中には多くの人がもっと大きな悲しみの最中にいると思う。遠くに住んでいるし「とはいえ、犬じゃん?」という(これが家族(人の方)じゃなくて良かった)と思う気持ちが揺れ動いた。私は冷静なのだろうか?それとも、ただ冷酷な人間なだけなのだろうか?

実感のない悲しさと、表現しようのない怖さがじわじわと心を浸食し始めた。それは、「今、地元の大切な誰かになにかあっても帰ることが出来ない。」という目に見えない壁が突きつけられた恐怖だった。

私のような鹿児島を初めとした九州出身の人は、地元に対して凄く強いご当地愛を持っている人の割合が比較的高い。「鹿児島を元気にしよう」という、抽象的なテーマでも「おう!しよう!」と固い握手をしてしまうような、漠然としてるけど強いご当地愛を持ってる人が多い。(仮に、「東京を元気にしよう」と置き換えてもさっぱり分からないテーマなのに今思えば不思議だ。)

地域や自然、食事に対してだけではなく地元にいる人への思い入れも強く、比較的ご先祖様を大事にする風習も強い。(余談だけど、切り花の消費量も日本三位の街であり、皆仏壇に飾ったりしてる。)

そしてどこを見ても長寿の方だらけの高齢化社会。年間20,000人、月間約2,000人弱の方が天国に旅立たれている。もしもこれが犬じゃなかったら?家族だったら…大切な人だったら…きっと何を差し置いても地元に帰りたいし、帰ってしまう気持ちもわからなくないと思った。帰らなければ「家族の死に目にも関わらず…」と言われそうな、帰れば「ウイルス持ってきやがって」と言われそうな、冷静な判断が出来る心境ではないんだろうなと、今となっては思う。

「GWに帰省するな」は、ものすごく正しい。

最近、GWに帰省しないでほしいと呼びかける内容の投稿や情報をちょくちょく目にする。完璧に、正しい発信だと思う。鹿児島県外に旅行に行かないように、という内容も目にする。こちらも、ものすごく正しい。家族が吊るし上げに合うような事が無いように今はお互い家にいるのが凄く正しい。

一方で、

「親戚、家族、知人、近所の人から誰かが帰省しようとしていると聞いたなら、止めよう。GWには県内に新型コロナキャリアが多く流通してしまう」

といった内容を目にする機会があった。凄く複雑な気持ちになった。

ウイルスキャリアとは、病原性のあるウイルスを体内(臓器や血液中)に持続的に所持していながら、(通常は)症状を呈さない健康な状態にあるヒトをいう。単にキャリアと呼ばれることも多い。キャリアとは「運ぶヒト」の意味である。(ウィキペディア(Wikipedia)より引用

新型コロナキャリアとは、この先万が一発症した時の私だ。ウイルスを持っている確率なんて分からないし、無自覚であれば地元に帰る県外在住者や旅行客だ。医療のために帰ってこないでほしい、は100%同意だしその通りだと思う。

ただ、どこか片隅に覚えていて欲しいと思う。誰もウイルスキャリアになりたくてなったわけではないし、そもそも発症しなければ持ってるかどうかも分からない。「自分がウイルスを広めて誰かを殺すかも知れないと思え、だから家にいろ。それがStayHomeだ」と強く言われて家にいる私達にとって、このまとめられ方はパワーワード過ぎるということを。

地域一丸な感じがどこか排他的な感覚を受けつつも、地域を守ろうと皆が熱くなり盛り上がって「受け付けない・寄せ付けない」ことが大切なことも凄く理解している。でも、その伝え方が冷静さを失っていないか、見えない壁にダメージすり減らしまくった弱った私は、薄々心配している。

未来、「訪れたい地域」としての伝え方なのか。

データを調べていないので私の完全な肌感覚で恐縮だけど、地元鹿児島は、第一次産業(と、その派生した業界)と観光で生きていく街だと思っている。コロナが落ち着いたら、再び観光客が訪れる街であってほしいと思う。

と、するならば、

コロナが落ち着いた後に最初に復活するのは国内旅行であり、国内からの観光客を受け付けようとしているんだよね?

いつか近い未来、状況が晴れた時に手のひらを返されたように「親戚、家族、知人、近所の人から県外の知り合いが旅行先を探してるとしていると聞いたなら、鹿児島をおすすめしよう!帰省しなよ!って言おう」と言われて私は全力で喜んで帰るのだろうか?

日々外出自粛を粛々とやっている。見えないプレッシャーや見えない壁を感じてる日々で犬が死に、情報の受け取り方が大きく変わったから感じる違和感なのだろうか?なんとなく、わだかまりが残る。

命がある日突然終わるように、状況は突然変わるし、いつかこの状況も終わる。解禁になったらすぐに帰りたいと思う人は、お金を落としたいと思う人は一体誰なのだろうか。それは、帰りたくても帰れないという事実を突きつけられた県外在住者なのではないだろうか。

私は今でも戸惑っている。「とはいえ、犬じゃん?」という気持ちや、コロナのネタで書くとは…という専門外の気持ちや、想いを馳せてきた地元を批判する感じ全部に戸惑っている。それでも、正しく防いで欲しいし、状況が変わるならこれを機に良く変わって欲しいと思っている。

正しく伝わる言葉を選びたい

まとまらない感じが凄いが、無理やりまとめると

・どうしようもない状況がある日突然起こり、日常における「仕事やそれ以外の優先順位」が大きくゆらぐ瞬間がある。人によってはIUターンを考えることもある瞬間となる。

・この状況が終わったとき、地元に帰りたいと思う人は増えるか?増えないか?は情報が決める気がする。地元の情報発信などを冷静に見ていて、「やっぱり排他的な風土は残ってる街だなぁ…」という半ば諦めに近い感想をもつと、戻りたいとは思えなくなる。

正しく伝える言葉を選ぶ。

感情に訴えたいならエモさは必要だけど、冷静に行動変容される情報に感情は不要なんだと、喜怒哀楽いっぱいになり冷静さを失いながら気づいた記録として残しておくことにしたい。

ハウスする犬はもう死んじゃったけど、ステイホームは続けるしかない。





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