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「10月のプールに飛び込んだ」は欅坂46屈指の大人の楽曲である

 本noteでは欅坂46のラストアルバム「永遠より長い一瞬」に収められている「10月のプールに飛び込んだ」(以下「10プー」)と言う楽曲について、個人的な感想を綴りたいと思います。

(この楽曲をまだ聴いたことがないと言う方は、是非一度聴いてみてください。)

普段滅多にnoteを書かない私が1つの楽曲の感想をnoteにまとめようと思った理由は、この楽曲が特に「社会人だとこう解釈出来る」という部分が多分にあると感じたからです。

欅坂46(櫻坂46)のメインファン層の若い世代(高校生・大学生位の年齢層)の方にとっては、”自分たちよりも上の世代の人間がこの楽曲をどう評価したのか”と言う1つのサンプルとしていただければ幸いです。

「10プー」は欅坂46屈指の大人の楽曲である

私は「10月のプールに飛び込んだ」は欅坂46の数ある楽曲の中でも、特に大人の楽曲であると感じました。

ファンの方の中には「えっ」と驚いた人もいるかもしれません。

確かに、曲中に登場する”僕”を「わざと目立とうとしてプールに飛び込んだ」「幼稚な人間」と捉える人もいるでしょう。

ただそれは、「10月のプールに飛び込む」と言う行為をどう解釈するか(どんなこととイメージするか)によって評価が大きく変わってくるところだと思います。

学生時代というのは、「学校に行って部活動をしたり、勉強をする」という"お決まりな日々"が続くことを、退屈に感じたり、不自由に感じることがあります。(何かの目標に向かって忙しく充実した日々を送っている方で、「そんなことを考える暇もない」という方も勿論いると思いますが。)

確かに"自分で選択できることの幅が狭い"という点では窮屈な訳ですが、一方で「"今何をするべきか / した方が良いか"の模範解答が示されている」という点では、ある意味とても快適な日々とも言えます。

「チャイムが鳴ったら教室に入って、席につかなければいけない」
「つまらない授業も受けなければいけない」

というのは、裏を返せば

「チャイムが鳴ったら教室に入って席につけばいい」
「つまらないと思っても授業を受ければいい」

ということだからです。

社会人になって思い知らされるのは、「自己責任のもとであれば、個人の選択は自由である」という社会のルールは、学生時代に想像していたよりも『不安定で怖いものである』ということです。

また、その不安定さを補うためなのか、社会には学生時代に考えていた以上に「これはこうあるべきだ」という不文律・人の視線や共通認識といった不思議な決まりがいくつも存在しています。

つまり、どんな選択をしても自由なはずであるにも関わらず、どの選択をしてもそこには「こうあるべきである」という(決して模範回答ではない)"正解のようなもの"だけが存在しているのです。

さて、曲中に登場する"僕"は、「こうしなければいけない」という模範回答ではなく「10月のプールに飛び込む」という選択をします。

当然「チャイムが鳴ったら教室の席に座る」という模範回答をしている多くの友人達にとっては、"僕"の行為は間違った振る舞いに映るでしょう。

しかし、それは学校という中での視点であって、もう少し大きな視点(社会や人生に置ける個人の選択)においては、「チャイムが鳴ったら教室の席に座る」という行為は、あくまでも”正解のようなもの”に過ぎない訳です。

曲中の"僕"は10月のプールに飛び込むという行為が「愚かなことである(周りの人から理解されないことである)」と承知の上で、「冷たい水の中」に飛び込むことを選択しています。

現実社会においても「"正解のようなもの"をなぞるだけの人」というのが実際は大多数を占めています。だからこそ、私は「目の前の自分の人生を、自分の意思で選択して進む」一歩を踏み出した"僕"はとても大人だと感じます。

(「10月のプールに飛び込む」という行為自体は誰かに迷惑をかける訳では無いですし、後から「寒さに震えることになる」のは自分自身でしかないのですから、やはり自己責任においてはこの選択についてどうこう言われる筋合いは無いでしょう)

さらに言うと、私は「教師は何も言わなかった 僕に興味がないんだろう」と言う歌詞が個人的に好きです。

ここでの"教師"は、学生生活や社会の中に存在する固定概念や常識・習慣のようなものだと思うのですが、「世の中は個人の選択に残酷なほど興味がない」ということを私も目の当たりにしてきたので、"僕"の選択へのリアクションとしては非常にリアルに感じます。

学校のワンシーンを舞台にしていますが、ドラマチックかつ「個人の生き方」「選択」と言うものをテーマにした非常に大人な楽曲ではないでしょうか。

楽曲は個人によって様々な解釈があって良いものだと思いますが、「そう言う解釈もあるのか」と10プーの印象が変わった方がいましたら嬉しい限りです。

これ以降は、蛇足になりますが「10プーの9thシングルの妥当性」についてもまとめましのたで、よかったら読んでいただければ幸いです。

10プーの9thシングルの妥当性

欅坂46(現:櫻坂46)の楽曲は「サイレントマジョリティー」を筆頭に、「不協和音」「ガラスを割れ!」...etc  特に表題曲はどれも既成概念や常識への抵抗・個人の葛藤など、非常に大きく・重たいテーマを描いてきたと思います。

「欅坂46の楽曲はメッセージ性が強い」と言う評価がある中で、解釈の仕方によっては「10月のプールに飛び込んだ」は他の表題曲と比べると楽曲として弱いと感じる方もいるかもしれません。

ただ、ここまで述べてきたように、私は「10プー」は非常に大人の楽曲だと感じます。

確かに1st~8thまでの楽曲は「大人になるまでの過程で、一度は考えるべき事柄」を一つひとつ提供してくれました。

ただ、(これは私自身が既にこうした経験を若い時分に済ませてしまっているから尚更そう感じるのだと思うのですが、)8thまでの楽曲はあくまでも「理想論(こうあるべきだ)」や「誰もが抱える葛藤・苦悩(どうすればいいかわからない)」を歌った楽曲であり、

理想を抱え葛藤した中で「では、自分はどうするべきか」という個人の選択や決断については言及がされていないと私は認識しています。

1st~8thまで提示してきた様々な理想・葛藤・苦悩に対して、「現実的にどう向き合うのか」と言うところまで踏み込んでいくと言う意味で、私は10プーは9thの表題曲として正当なステップであり、妥当な楽曲であったと思います。

最後に、もう一歩だけ踏み込んで、8thの「黒い羊の僕」と「10プーの僕」が同一人物であるか否かについて私の解釈を整理しておきます。

判断は難しいですが、個人的には”同一人物ではない”(当然それまでの楽曲で描かれた苦悩・葛藤を内包している人物ではある)と思う方が自然な気がしています。

「黒い羊の僕」はかなりナイーブで、強烈な感情の持ちだと思います。「授業をサボってプールに飛び込む」という思い切った行動を選択出来るタイプではやはり無いのかなと。

だから、(真実はわからないものの)個人的には、もし本当に「平手友梨奈がNOを出した」としても、その理由は楽曲の好き嫌いということではやはりなかったのでは無いかと推察しています。

もしセンターが平手であるとすると、否が応にも8thまでの世界観を楽曲の中に持ち込まざるを得ない訳で、そうすると前述した「10プーの9thの妥当性」(8thを踏まえた上でのテーマのステップアップ)が崩れることになります。

結果論になってしまいますが、欅坂46は9thシングルは「楽曲に配役を合わせるか(平手以外のセンターで10プー)」「配役に楽曲を合わせるか(10プーでは無い別楽曲でいく)」どちらかを選択する必要があったのかもしれません。

さて、これまで長々とつまらない文章を書いてしまいました。
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。

私としては櫻坂46の1stシングルで、『自分の人生をどうするのか』(
「Nobody's fault 」「最終の地下鉄に乗って」)や『個人の選択』(「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」「ブルームーンキス」)がテーマとなっていることにとても納得しています。

欅坂46の流れを踏まえた上で、今後も櫻坂46の楽曲を楽しみに聴いていきたいと思います。

アディオス!


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