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「耳マークの歌」問題について

「耳マークの歌」とは何か

 全難聴という全国組織があります。全難聴は連合会で、私は全難聴に加盟する協会の一つ・東京都中途失聴・難聴者協会の会員です。
 そして「耳マーク」は、「聞こえが不自由なことを表すと同時に、聞こえない人・聞こえにくい人への配慮を表すマーク」(全難聴HPより)で、全難聴が権利を持っています。

 今年3月、全難聴は突然「耳マークの歌」を作ることを決め、その歌詞を公募すると発表しました。「耳マークの歌」の募集要項には「聴覚障害者の多様性の広がりと、耳マークのさらなる普及と啓発を促進させるため」と目的が書かれています。また募集チラシには「聞こえない、聞こえにくい人たちに勇気と元気を与えられる」歌詞が条件である、と書かれています。

何が問題なのか

 「耳マークの歌」の問題点は、言うまでもなく「歌」です。私のように重度の難聴者は、昔聞いた歌はともかく今回新たに作られようと画策されている「歌」はきっと分かりません。音楽の授業などでつらい思いをした重度難聴者は少なからずおり、私自身がどうだったかはここでは書かないけれども、それなりにヘビーな経験をしました。そもそも歌が聞こえなくて苦しいのに、勇気を与えられる歌??? となるわけです。

 歌を聞くことができずトラウマに陥った経験のある難聴者が多くいるのを知っているにもかかわらず、全難聴は耳マーク普及のために「歌」を採用しました。「聞こえない人・聞こえにくい人への配慮を表すマーク」をPRするのに、その配慮をしない歌を選んだことに問題があります。大変矛盾した企画です。

難聴は千差万別、でも

 もちろん、軽度難聴者の中には歌が分かる人もいます。そもそも、難聴と言っても一人一人聞こえの程度はさまざまです。生まれつき聞こえにくい人で一度も歌を聞いたことがない人もいれば、小さい頃から補聴器を使って歌を楽しんでいる人もいます。さらに人生半ばで全く聞こえなくなっても人工内耳を埋め込む手術を受けて、楽しめるようになったという人もいます。

 しかし、だからといって歌が分からない人たちを置き去りにしていいはずがありません。

全難聴の対応

 「耳マークの歌」募集の件を知ってから、私は全難聴担当者とメールのやり取りを続けてきましたが、どうも耳マーク普及のため(というよりは全難聴の組織を大きくするため)に、犠牲や不平等はやむを得ないとのお考えのようで溝が埋まりませんでした。個人より組織、というふうに。

 そして先月、次回機関誌に「耳マークの歌」について意見を出した人たちによる「誌上討論」を載せたい、と全難聴機関誌部から依頼を受け、書きました。「討論」というからには賛否両論が載るものと思っていました。ところが実態は、まるで反対する人たちが誌上に晒し者にされるような扱いに思えました。そして結局、機関誌に載せる話は機関誌部自身によって立ち消えに至りました。

 以下、ここに載せるのは私が書いたその原稿です。

 「耳マークの歌」に反対です。音楽でつらい経験をした難聴者にとっては「歌」そのものが暴力だからです。私は、耳マークの歌の担当者と意見交換をしました。しかし担当者から「音楽を楽しめる難聴者もいる」し、「聴者への啓発のため」に耳マークの歌が必要で、「理事会の賛成多数で決まった」から問題はないと告げられ、溝は埋まりませんでした。チラシにある「聞こえない、聞こえにくい人たちに勇気と元気を与えられる」目的はどこへ行ったのでしょう?
 多数決が常に正しいとは限りません。重度の難聴者に勇気どころか抑圧や犠牲を強いるような「歌」が、全難聴の企画として決定されたことには深刻な問題があります。全難聴は、まるで「より聞こえること」を是として「より聞こえない」弱者を排除しようとしているかのようです。
 私は、理事会に再採決を希望します。その際「耳マークの歌」と直接関係ある人を除き、忖度したり自己犠牲に陥ったりすることなしに、「耳マークの歌」が本当に中途失聴者・難聴者への「エール」になるのか、公平なる熟慮を強く求めます。一度決定したことを死守するのでなく、再考するのもまた「英断」だと思います。

 「耳マークの歌」の問題についてはもっと多くの人の意見を聞き、「歌」ではなく、例えば詩や川柳、キャッチコピーなど、音楽を伴わない他の方法で公募がなされることを私は希望しています。

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