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やる前から無理だと決めつける思考はどこからくるのだろう

「そんなの絶対無理だよ」

スタジアムへと向かう車内。

昔、友人と交わした会話がふと頭をよぎる。

地域に根ざすクラブ活動の大切さを伝えたいと意気込んでいた流れでの言葉だったと思う。

あれから数年が経ち、今日の光景をスタンドから見渡しながら、一部くらいなら覆えされたと言ってもいいのではないかと感じた。

そんなことを考えながら、こういった言葉をかけられること自体はなにも特別なことではないなと、よくよく自身の人生を振り返りながら思う。

海外でプレーするためにクラウドファンディングに挑戦する。

電話越しの母に「そんなもん無理に決まっとる」と一蹴されたが、生涯反抗期を掲げるぼくには火に油を注ぐだけのことだった。

他のプロジェクトを参考にしながら文言を作成し、社会経験のある友人に夜な夜な相談しながら戦略・戦術を練った。

結果としては想像を超える数の方々にサポートしていただき、目標金額を大きく上回ることとなった。

このときの経験があったからこそだろう。

冒頭での一言を受けたとき、なぜやる前からそんなにはっきりと断言できるのだろうと不思議でしょうがなかった。

そういう思考はいったいどこからやってくるのだろう。

もしかしたら、その人には以前同じようなことに挑戦し、うまくいかなかった経験があるのかもしれない。

これはわりとある話だと思っていて、よくよく話を聞いていると、なによりもその人自身が諦めることに慣れている傾向を感じることがよくある。

まるで諦めることが大人になるということであり、社会を生きるということだと言っているかのような。

理解しているようで理解しなようにしているからこそ、ぼくはずっとくそがきのままなのだろうが、そもそもとして、人間や人生というものは白黒はっきりできるようなものではないと思っている。

世の中における成功か失敗かは結果論が多く、水面下でのトライアンドエラーは軽く流されることも少なくはない。

結果だけを切り取ってしまえば、なにか特別なことであるかのように映ってしまうかもしれないが、実際はより単純なもので、ただ実現するまで諦めなかっただけという話は山ほど存在する。

結局はできる、できないといったような話ではなく、実現するその瞬間まで熱を絶やさずにいることができるかというある種でシンプルであり、だからこそ「絶対」などという言葉で括れるものではない。

ただし、自分に関してのことであれば話は別。

なぜなら、前述の通り、実現するその瞬間まで熱を絶やさずにいることができるかということが物事を動かす基準になるから。

自分が絶対無理だと思えば、それはどうしたって無理であり、絶対にできると思えばいつかは絶対にやれる。

だから、どうしても叶えたいと願うのであれば自分はやれるという自信を持てるだけのコンディションを整え、やれると信じて挑戦できる環境に身を置く必要がある。

でも逆に、無理だなって思うなら、それはそれで受け入れることもありだとは思う。

人は常にグラデーションの中で生きていて、色の濃淡を作用するのは環境によるものが大きい。

抗えないと諦める時もあっていいし、少し無理をしてでも頑張りたいと思うのならそうすればいい。

ものすごく矛盾した話になるけど、結局そういう思考態度が自分の本当の声に気付かせてくれることになり、本当に諦めたくないものを最初から無理だと決めつけないでよくなる方法なのだと思う。

ほんと世の中って矛盾だらけ、でもそこがおもろいよね。

逆も含めて満員だったらなと思いつつ
でもそうやったら半分以上の人がさらに暑い中での観戦にやったからやっぱよかったなとも思った

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