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亀の歩み稽古日記~情動と感情~

「情動」という言葉はよく聞く。例えば水の動きの時、「情動は滞りなく何処へでも流れていく」とか。

その「情動」と 「感情」との違いについての話は、初めて聞いたな。

感情は居つき
情動は流れているもの

言葉で聞いただけではよくわからない気がする。なぜなら 「情動が流れている」感覚って、なかなか無いんじゃないかと、、。言葉の解釈の違いもあるだろうけど。。

ここでいう情動はどんな感じかというと、ものすごく豊かな感じ。普段はどちらかというと感情に色どられている。感情は居つくから深みがあり強くもあり、囚われてしまう感じもある。
情動のほうは、居ついた感情のために今まで見えなかった、川の流れに気付く感じ。…感情を溶かして流してゆく。こんなに豊かで煌めく川が流れているのか、と思う。水を得た魚のようなカラダになる。

もちろん、いつもそこに行けるわけでなく、、どうやったらいつも其処にいけるのか、又なぜ行けないのか、、そことの対話の稽古でもある。果てしなき対話の…。

感情、情動、と、カラダの動きとの関係性は、仕組みはどうなってる…。
何故私達は感情を、情動を表現できてしまうのだ?

この問いを初めて持ったのは、稽古に通うちょっと前のこと。数学者 岡潔氏の著書に、「私達はただ立ち上がるだけでも、幾通りもの立ち方ができる。嫌々立ったり、楽しげに立ったり、悲しげに立ったり。その時の感情を表現してしまう。でも一体何故そんな事ができるのか、誰も知らないのだ 」、、こんなに頭の良い人が、私達の当たり前のことに疑問を持ち、又知らないと言っている。目の前の世界が開かれる感じがした。

感情や思考やイメージを溶かして、呑み込む。喉元を通り、それらは声となってカラダ中を流れる。カラダは発声器官となり情動が歌いだす。水の稽古。水のカラダ。

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