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083【221年のうち1秒間】縁というもの

 齢72にして美しい、気品のある女性と仕事をしたことがある。

 未熟な若者の話にも真摯に耳を傾けてくれる彼女は、50歳も下の僕の業務を気遣ってくれた。別れ際にはいつも「無理しないでいいのよ」と言葉を添えて、銀色のつややかな髪でエレベーターの見送りをしてくれる人だった。

 転職前、そんな彼女に最後のあいさつに行った。思い切って「生きていくうえで大切にしていること」を聞いたところ、彼女はすっと息を吸って一拍置いた後、「人とのご縁よ」と教えてくれた。言葉自体はありふれているかもしれないけれど、僕はその言葉に含められた歴史を想像して、自然と背筋が伸びた。

 地球上の全員と会おうとすると、一人あたり1秒顔を合わせるとしても、約221年かかるという。僕たちはこの地球のほとんどの人と、一言もしゃべらずに一生を終える。これはいささか極端な例だったが、実際、音楽ライブや満員電車にいると、この世のほとんどは一生会わない人でできているなあ、と実感する。

 「ほんの小さなボタンのかけ違いで、未来は大きく変わる」。代表される言葉はバタフライエフェクトで、蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を引き起こすという信じがたい話だ。この言葉は、未来は想像ができないことを示唆しつつ、自分の選択で未来が変わることも教えてくれる。もちろん流れに身を任せていただけでも、同じように未来は変わっていくだろう。

 私は今、60人のシェアハウスに住んでいる。シェアハウスに住む選択は、強い意志を持って、自分で動いて生み出した未来だ。ここの住人は、みなそうやって自分の未来を選択し、偶然落ち合っている。

 それぞれがそれぞれの人生で一歩を踏み出し、この場所で合流した事実は、奇跡と言うには照れくさい。それでもなお、「それぞれが創り出した未来の交差点」とでも表現したくなるくらい、輝く出来事に思える。

 ご縁の話をしていて思い出したのが、10年前、祖母からもらったアドバイスだ。「好きな人の家には忘れ物をしなさい」。会える口実ができるから、と言われて、ふーん、孫にずいぶん大人びたアドバイスをしてくれるんだなと、妙に印象に残っていた。

 今改めてこの言葉を思い出すと、その重みに身震いしてしまう。僕はこのセリフを、実の親族から言われている。祖母がどこかで選択をとちっていたら、僕はこの世にいなかったかもしれない。

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