仕事師の沈黙

信じられない思いです。しかし、私がどこまで彼、熊沢英昭さんの心の中をわかっていたというのでしょう。そう自問しました。

農林水産省をはじめて取材した頃からの付き合いです。もう33年。当時はJRAなどを所管する競馬監督課長だったでしょうか。とても温厚で優秀。いつ会っても余裕たっぷり、にこにこ笑いながら仕事を片付けていました。

退官後もときどきお会いして、彼がアメリカとの交渉にあたったウルグアイラウンドでのコメ市場開放問題や最近の農政などについて話を聞いていました。

アメリカがコメの関税化で譲歩する兆しを見せていると察知して、関税化猶予によるコメ市場の部分的な開放案で日米交渉をまとめたのは、ひとえに当時国際部長だった彼と、官邸や自民党首脳との調整にあたった京谷昭夫事務次官、鶴岡俊彦食糧庁長官の功績です。

主にジュネーブでの多国間交渉にあたっていた塩飽二郎農林水産審議官は、当時の交渉経過を東京大学の研究チームによるオーラルヒストリーのかたちで残していますが、京谷氏も鶴岡氏も一切明かさずに世を去り、対米交渉の真相を詳しく知るのは、外務省OBの谷内正太郎さんと熊沢さんだけになっていました。

彼は政策について話すことにとても慎重でした。アメリカとのコメ問題協議の内幕はもちろんのこと、長いこと朝令暮改、迷走を続けた農政改革について聞こうとしても、いつも言いたいことをグッと飲み込み、抑えているように思えました。

次官OBの中には高木勇樹氏のように、3年も次官をやりながら自らは断行しなかった大改革を、農林漁業金融公庫に天下って高給をもらいながら恥ずかしげもなく経済界と一緒に提言して、後輩たちを困惑させる人物もいました。

本当の仕事師、熊沢さんが口ごもる様子が不甲斐なく思えてなりませんでしたが、それは日本の牛飼いたちをパニックに陥れたBSE発生(2001年9月)という事件の責任をとり、次官を辞任したことに起因するのだろうと、私はずっと思っていました。

しかし、昨日のニュースで事件を知って、私は自分の取材がなんと中途半端なものだったか恥ずかしくなりました。私はもっと頻繁に会って、もっと深く、詳しく、彼のこれまでの功績や失敗とともに心の中の苦しさを知るべきだった、と思います。

私にはなにもできなかったかもしれません。しかし、なにか役に立ったかもしれません。起きてしまった事件が悔やまれてなりません。

温厚だから、人柄がいいからというだけでトップにたてるほど官僚の社会は生やさしいものではありません。熊沢さんにも当然厳しい側面があったでしょう。

昨年夏、彼の後輩たちや肉牛生産関係者が大勢集まるある会合にお招きした時、そろそろ四半世紀前のコメ市場開放の交渉の真相を聞かせてください、とお願いしました。少し前向きな反応でした。

昨日から報道されていることが事実とするなら、熊沢さんの責任感、律儀さ、真面目さが間違った方向に作用してしまったのかもしれません。罪は償うべきだと思います。

そして不幸なかたちで亡くなられた息子さんのご冥福をお祈りします。

私はこれからも熊沢さんと付き合っていきたいと思います。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASM6252T4M62UTIL00Q.html

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