プーチンが東京に核ミサイルを落とすことを願う

生きるということは、死のプロセスの一部であり、生と死は分けて考えるべきではない。

つまり、生きることは死ぬことであり、死ぬことは生きることなのだ。

このような哲学的な視点から、プーチンに東京に核ミサイルを落としてほしいと題した皮肉に満ちたブログ記事を書きたいと思う。

現在の日本は、数十年前から同じ顔ぶれの既得権益層が強固な力を持っており、社会の変革がなかなか進まない現実に直面している。

新陳代謝が無い、言い換えれば、死を拒む既得権益層が日本を統治する限り、日本という国は生きていないも同然である。

そういった社会が出来上がった原因は、日本人は死を異常なまでに避けたがっていることにあると思う。

天寿を全うしそうになっている老人、時代に合わなくなった企業、存在意義を誰も思い出せない古くからある団体などを、異常なまでに延命している。

死を避けるということは、生きることを避けているのも同然だということを理解すべきだ。

「生きる」を避けて、無機物の石ころのような状態でいつづけるほどあわれなことはあるまい。

私は「生きる」ということを大切に考えるがゆえ、日本人が忌み嫌い、避けに避けている死の重要性を痛感している。

そう考えた時、「プーチンが東京に核ミサイルを落としてくれたらな」という考えが頭によぎった。

東京に核ミサイルが落ちたら、多くの人が死ぬことは確かだ。

私もおそらく死ぬ可能性が非常に高い。

もし、核ミサイルの爆風では死なずに生き延びたとしても、後の社会の混乱などが原因で死ぬ可能性が高いと思う。

あるいは、ロシアによる日本の占領は、高確率で恐ろしい統治となると思われるので、それにより死ぬかもしれない。

しかし、そうなれば私は今以上に「生きる」ことになるだろう。

極めてアイロニーに富んだことを言わせてもらうことになるが、今の日本の置かれた状況は、東京に核ミサイルが落ちるよりも恐ろしい状態なのだ。

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