夜並べて

 隣の男に、恋をしている。


 私はしがないフリーターで、いくつかのアルバイトを掛け持ちしながら生活している。そのうちの一つが、コンビニエンスストアの深夜アルバイトだ。
 深夜ということでお客も少ない。必然的に、同僚との会話が増える。


「今日なんか客多くないっすか」
 私より低い声が、高い位置から降ってくる。
 そうですね、と当たり障りのない返事を返す。この人と話すと、会話が下手になる。いつだって後悔するのだ、あと一言だけでも言葉が出たなら。
「よくこんな時間まで起きてられますよね」
 後悔の波に呑まれながらも、会話は続く。優しいのか、鈍いのか、はたまた。

 いつだってこの人は眠そうだ。仮にも接客業だというのに前髪は長く、そのせいか伏し目がちで、いつも斜め下を見ている。その視線がちょうど私の頭くらいで、目が合っているような気になる。声のトーンも一定で、私の知っている人の誰よりもゆっくり話す。夜に放送されるラジオを聞いているような気分になって、なんだか私まで眠くなる。

 居心地がいいのだ、つまりは。

 仕事が何かは知らない。アルバイトをしているのだから、私と同じフリーターか、夢追い人か、もしくは世捨て人か。個人的には一番最後がしっくりくる。自分のことも周りのことも何も考えてないように見えるから。

どちらかといえばダメな人間だ。タバコも吸うし、酒だって飲んでる。服にはさほど頓着しないようだし、アルバイトにも時折遅刻する。ただギャンブルはしない。そんな金はないし、趣味じゃないらしい。騒がしいのは苦手だ、とも言っていた。

 多分、私よりも年下。不健康そうで、全て悟ったみたいな雰囲気があるけど、割と物を知らない。公衆電話の掛け方とか、バスの乗り方とか、DVDの再生方法とか。よく生きてこれたねって言ったら、必要なかったんでと言った。その代わりによく分からないことを知ってる。少し離れた公園で星が綺麗に見えるとか、革紐は乾くと縮むとか、魂の重さはは21グラムだとか。

 魂が21グラムだという話をしたのは、レジの過不足金をチェックしていた時だった。彼は私の手のひらに一円玉を21枚乗せて、そのあと彼も自分の手に21枚乗せた。そうして一度握り込んだあと、まあ本当は蒸発しただけなんすけど、と言ってレジの上で手を開いた。彼にならってお金を戻したあと、ほとんど感じない重みを思い出す。一度握って、開く。もう重みなど忘れてしまった。その魂とやらに心が含まれているのなら、彼への想いは何グラムだろう。


 どうして深夜のアルバイトをしているのかと、訊ねたことがあった。
 少しの沈黙の後、夜の方が好きっていうか、落ち着くんですよね、と車に掻き消されそうな声で囁いた。昼間に出かけるのは苦手で、というか、単純に朝起きられないんですよ。とはにかんだ。家に帰っても、その時の顔が忘れられなかった。


 彼がこのアルバイトを辞めるらしい。彼のいない日に、店長から聞いた。理由は知らない。店長が言わなかったから。
 次に出勤してきた時に、彼自身の口から「辞める」と聞いた。それまで漠然としてた彼のいる日々の終わりが、猛烈な勢いで迫ってきた。理由は聞けなかった。終わりを実感したくなかったから。
 彼が出勤する最後の日は、何事もなく終わった。私の中の少女が、躍起になって暴れまわる。片付けも終わって店の外に出る。駐輪場に向かう。その背中に向かって、小さい頃の私が飛びかかる。
「あのね」
 彼は立ち止まって、ゆったりと振り返る。ああ、こんな時だって彼はいつも通りだ。
「どうしたんですか」と、いつも通りの低い声が、幾分かの柔らかさを持って降ってくる。視界が揺らいで、思わず下を向く。ただでさえ大きい身長差がさらに開く。
 もう一度、どうしたんですかと声が降る。さっきよりも柔らかさを含んで。私の意思とは関係なく飛び出した声は、それ以上顔を覗かせはしなかった。助けてくれ、私が一番私のコントロールができない。
 ジャリ、と音を立てて、私の視界に安っぽいスニーカーが写り込む。もっといい靴を履けばいいのに、なんでも似合う、きっと。などと現実逃避を始めるお粗末な頭を、甘い牛乳に一晩漬け込んだフレンチトーストみたいな声が包む。
「待ちますよ、どうせ今日は帰って寝るだけですから」
 まともに歩けやしない視界のまま、ようやく顔が上がる。微かな笑い声が古いガラス窓の向こうから聞こえる。
「化粧崩れてますよ」
「君しかいないからいい」
「殺し文句ですね」
 小さい頃に嫌いなものを丸呑みしようとした記憶が蘇る。あの時はどうしたっけか。吐き出すこともできずに半泣きで呑み込んだんだったか。じゃあこの言葉はそれと同じか。この言葉を歯を立てるのも嫌なものと同じ入れ物に放り込んでいいわけがない。これはもっとキラキラとした星空のような綺麗な箱にしまっておくべきだ。いつかテレビで見た星の海のような、綺麗な……。
「好き」
 さっきまで喉につっかえていた言葉は、一度零せばダムが決壊したかのように溢れ出した。
 好きなんです、とボロボロこぼれる言葉は私が思っていたよりも綺麗な形をしていた。勢いのまま地面に打ち付けられるかと思ったそれは、私よりも大きな手に受け止められる。
 ぼくは、とその手の持ち主は話す。
「あなたのことを夜みたいだって思ってます」

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