花とボールペン/焦げ跡

花とボールペン

道を挟んだ真向かいに小さな一軒家がある。
古民家と言えば聞こえはいいが、ただの古びた小さい家屋だ。庭がある点は魅力的ではあるけど。
その家に、少し前から人が住んでいる。それに気づいたのは2ヶ月ほど前のことだった。通勤時にその家の前を通ると、小さい郵便受けから新聞が盛大に道側にはみ出していた。
帰り際にもう一度郵便受けを見ると、新聞はなくなっていた。


先週の休日にその家の住民と出会った。
この2ヶ月、一度も顔を見ることがなかったのだ。多分生活リズムが全く違うのだろう。私はごく一般的な会社員だが、それと合わないということは夜勤だろうか。在宅や不定期の仕事なのかもしれない。
まあ、どこで何の仕事をしていようが、私には到底関係はないのだけれど。


彼は寝巻きなのか部屋着なのか、ゆるいスウェットの上下にサンダルで、郵便受けの前で突っ立っていた。挨拶をしないのも不自然かと思い、こんにちはと声をかけると彼の肩が跳ねる。驚かせてしまったらしい。目を真ん丸にしてこちらに振り返る。さっきよりも背が伸びている、と思うとまた曲がった。
線の細い男の子だった。成人はしているのだろうけれど、男性と呼ぶより男の子と呼ぶ方がしっくりくるような。少しの間目を彷徨わせ、おはようございますとボソボソ返してきた。

どうやら寝ぼけていたようだ。昼が近いのだが、少し前まで寝ていたのだろう。よく見ると髪がところどころ跳ねている。郵便受けの前で突っ立っていたのは、半分寝ていたのかもしれない。
驚かせてしまったことを少し申し訳なく思ったが、特に用はないのでそのまま駅に向かう。せっかくの休み、喫茶店で優雅に昼食でもと思って出て来たのだ。
それにしても昼に起きてくるとは、やはり夜が遅い仕事なのだろう。


今日は早く上がれたので、家でゆっくりしようと少しうきうきしながら家路を急ぐ。駅から出て少し歩いたところで、向こうから走ってくる人に気づく。
向かいの彼だった。

前見たときは寝間着だったから、ちゃんとした私服を見たことがなかった。
あの時自信なさげに曲げられた背中をしゃんと伸ばして、小綺麗な格好をした彼は、思っていたよりも若かったみたいだ。

大きいリュックを揺らしながらこちらに向かってくる。目が合った。少したじろぐ。いや、一度会ったきりだ。覚えているはずが「こんばんは!」
そのまま駅の中へ走り込んでいくのを見送ったところで、挨拶を返していないことに思い至る。
今度は私がか細い声で、挨拶を誰もいない道へ落とした。

それからというもの、度々彼を見かけるようになった。
出勤時にふらふらと家に入っていくのを見た。
昼休みに入った喫茶店で、テーブルいっぱいに紙とパソコンを広げて誰かと話をしていた。
暇つぶしに眺めていたSNSで、大きなパネルの前で俯き加減で微笑んでいた。


月末は大抵忙しい。今日も例に漏れず残業だ。
いや、まあいいんだ。残業代は出るし、私一人が残っているわけじゃない。辛いのはお互い様だ。早く風呂に入って寝よう。明日は休みだ。寝れるだけ寝てやる。
そんなことを考えながらあの家の前を通った時、話し声が聞こえた。
見ると、あの男の子が大きな花束を抱えて笑っていた。周りにいるのは友人か、同年代の男女が3人。


私はなぜか、足が縫い付けられたかのように動けなくなった。
胸を押さえる。伝わってくるのはスーツのざらざらした感触と、内ポケットに入っているボールペンの輪郭。
彼らが家に入るまで、彼があの日眠そうに突っ立っていた小さな郵便受けの前で、呆然と立ち尽くしていた。



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