水泡/気の抜けるあまりに短い話/ゆめゆめわすれることなかれ

水泡

 僕が彼女に出会ったのは、夏祭りの夜のことだった。僕は屋台の灯りの熱に焼かれながら、ぼんやりと空を眺めていた。あまりの蒸し暑さに、全身真っ赤になっているのではと思ったほどだ。突然、息が詰まるのを感じたと同時に、浮遊感に襲われる。遠くでわあわあと僕の仲間が騒いでいるのが聞こえた。それらは一瞬で収まったが、急激に変わっていく視界に何が起きているか理解する間もなく、広々とした部屋に連れてこられた。ここで、ようやく彼女を認識した。僕は彼女の姿をすべて目にした瞬間、ぴしゃりと雷にうたれた心地がした。僕は、彼女に恋をしたのだ。

 後になって気づいたのだが、僕が連れてこられた部屋には先客がいた。彼は僕と同じように彼女に連れてこられたらしく、部屋の隅でじっとうずくまっていた。彼は口を開いたと思うと、「彼女に惚れたのか」と尋ねてきた。僕はそれまで、恋なんてものは経験したことがなかったものだから、一瞬なんのことかわからなかった。けれど、すぐに体の端から端まで熱くなった。そんな僕を見て彼は目を細め、「やめといたほうがいいぜ、叶うもんか」とささやいた。僕だってわかっているつもりだった。
 彼女は毎日、朝と夜の2回部屋を覗いてくる。僕は彼女を見るたび嬉しくなって、ずっとガラスに顔をくっつけていた。一方彼は、彼女がご飯を持っているとわかったときにしか近づかない。彼いわく、「こんなところにいきなり連れてこられたんだ、そう信用できるわけない」とのことだ。僕だって不安にならなかったわけじゃない。前いた場所にだって幼馴染くらいいたのだ。けれど不安やさみしさよりも、彼女への気持ちが大きかったのだ。僕を見るたび、彼女は笑う。その笑顔を見るたび、僕は嬉しくなって、今すぐ部屋中を走り回りたくなる。彼女がいなくなったあとぐるぐると回っている僕を、彼はいつも目を細めて見る。
 窓の外で雪や、蝶や、鳥を見た。僕は初めてここに来たときよりもふたまわりほど大きくなっていたけれど、彼はあまり変わらなかった。彼女は髪が伸びたり、短くなったりした。僕は彼女の様子が少し変わるたび、かわいい!とさけびたくなって、やっぱりぐるぐると回った。彼はやっぱり、部屋の隅にうずくまっていた。

 ある時、彼女の様子が変だった。ぼんやりとしているかと思うと、急にはっとしてを繰り返す。しきりに鏡をのぞき込み、時計をちらちらと気にしている。窓の外はうすい赤紫色になっていた。僕は何か体の調子でも悪いのかと思って、いつものようにぐるぐるした。彼は珍しく部屋の隅から出てきて、僕の側に寄ってきた。彼女の様子がおかしいと言うと、僕の目をじっと見つめて「そうかい」と言った。
「彼女が心配なんだ」
「俺はお前のほうが心配になるよ」
 彼女は突然ぱっと顔を上げたかと思うと、小走りで扉の向こうに消えていった。僕は彼女がこれほど慌てた様子を見たことがなかったので、さらにぐるぐると回った。
「彼女は大丈夫なのか、なあ、何か知らないか、何でもいいんだ。僕が知らないこと、君が知っていること、どんな些細なことでもいい。なあ、どうして彼女はあんな様子なんだ」
 彼は僕が回るのを体で止めた。そうして、彼が口を開くと同時に、扉が開く。
「俺が知っていることを話したって、どういうことはないさ。言おうか言うまいか迷いに迷って、とうとう今日と言う日が来てしまった。おれはどうすればよかったんだろうな」
 彼の言葉はもう、半分も耳に入らなかった。
 彼女の隣にいる人は、僕の目から見ても明らかに恋人だった。そして、ぼくは彼女のペットの、一匹の赤い金魚であることをようやく自覚した。僕らがいる広々としたこのへやは水槽で、隣の彼は黒い出目金だったのだ。ぼくは彼女と話すことも、彼女を恋人として幸せにすることもえいえんに来ることはないのだ。
「そうかあ、そうか。ぼくはたとえ彼女が苦しさに息を詰まらせていても、それを分け合うことはできないんだね。ぼくは彼女に飼われ、彼女よりも早く死ぬんだ。彼女のそばで、彼女がしぬのを見届けることはないんだね。」
 金魚は口からこぷこぷと口から泡をこぼした。出目金はずっと、金魚のほうを向いていた。

 次の日、水槽は出目金だけになった。
 彼はかれが彼女の手にすくわれ、扉の向こうに消えていくのを見た。
 水槽が消える前の日、彼は口からごぼりと大きな気泡を吐いた。
「叶うものかなんて言わなければよかった。せめて少しの夢でも見させてやればよかった。彼が眠っている間に、彼女と幸せに過ごすゆめをみることができたならどれほどよかったか。いや、おれは彼女の恋人の存在を出会ってすぐに話し、彼の恋を打ち砕いてやらなければならなかったのだ。そうすれば、彼は今も俺と話をしていただろうに。」
 出目金はごぼごぼと、気泡を零し続けていた。


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