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新『あるき神』論(ボツ原稿1)


 復刊『あるき神』の栞に寄せた文章のボツ原稿その1です。栞に採用してる言い回しもあるのですが、他人のことを話すはずが最初から自分語りになるという自分あるあるをやってしまってるのでボツです。ただ熱量もあるし、栞の小論の背景も分かるし、noteの場なら自分語りで別に問題なかろうということで載せます。最近更新していなかったし。


 石寒太の俳句を初めて読んだのは、私が二十一歳の頃だった。俳句を始めて一年近く経ち、そろそろ俳句結社にでも入ろうかと考えていたところ、句友が勧めてきたのが「炎環」という結社だった。その「炎環」の主宰が石寒太だった。加藤楸邨晩年の愛弟子だと友人はいうのだが、聞いたことのない俳人だったので、ひとまずどんなものかと思い、インターネットで名前を検索すると、すぐに石寒太の俳句を見つけることができた。そして、出てきたいくつかの句を読んで「炎環」への入会を決めた。一目で俳人としての高い力量を見抜いたとか、運命的なものを感じたとかそういうことはではなく、ただ単に、俳句初心者なりに、次のような句を何となく良さそうに思ったからだった。

蝶あらく荒くわが子を攫ひゆく
かろき子は月にあづけむ肩車
尿る子の怒る瞳をして豆の花
夕立のしらしらはれて刃物街

一応、当時の心境に説明めいたことを加えるなら、一句目は本来非力な蝶を「あらく荒く」と書き、それに子が攫われるという想像を振り切ることで見えてくる子の儚さと、蝶と共にゆく子に対する成す術のなさ。二句目は、肩車の父子のほのぼのとした景の中にある父親の高揚感と、無意識に僅かに染みる別離の予感。三句目は子の瞳に現れた自我とそれに気付いた他者としての父。いずれも対象に優しい眼差しを向けながら人間の持つ寂しさを感じ取っているような、そういう句に惹かれたのだと思う。その一方で、四句目のように音韻的なセンスによって表現された夕立(まさに白雨)に、刃物街が蓄える大量の刃物の反射光のイメージを重ね合わせるクレバーかつ大胆で技巧的な句もあり、その振れ幅の大きさ、懐の深さを、句歴の浅い当時の私は「何となく良さそう」と感じ、入会を決めたのだと思う。

 はたしてその選択は間違いではなかった。石寒太はいわゆる手取り足取り教える先生ではなかったし、私もそれを望んでいるわけではなかったが、選句の幅がとにかく広く、自分を、師の俳句の好み・考えに合わせるのではなく、自分のまま俳句に対する理解を深めていける感覚があった。
 俳人で評論家の筑紫磐井は「石寒太論」(「沖」1980年9月号)の中で、『あるき神』を評しながら石寒太について「この作者の創る世界にはどこを探しても否定がないことに気づくだろう。否定たるべき死さえも、それは美しい生のいとなみの終焉のいろどりをそえるにすぎない。そしてそこには現状肯定というよりも、さらに積極的な森羅万象の中における生命への共感といった哲学すら感ぜられてくるのである。」と述べているが、それは選句についても同様で、選者としての石寒太はあらゆる俳句をまずは受け止めてくれる安心感があった。
 石寒太に投げた俳句がどのように返ってくるか、雑詠欄のどの順位に載るか、誰のどういった句が巻頭を飾ったか、添削があった場合の意図は何か、それらを考えることで、俳句をもっと知りたいという欲求と上達の速度は飛躍的に高まっていった。それは師を通して私を見ているような、石寒太を私を見るための鏡にしているような師との付き合い方だった。弟子としても、おそらく師としても「正しい」在り方の一つではあっただろうし、多くの優れた俳人がいる中で、ただ一人を師と定めて学ぶ意味はそこにあるのではないかとも思う。私にとって石寒太は優れた俳人であり、優れた師であった。しかしその関係に安穏とすることで一つの陥穽にはまってしまっていたことに当時は気付いていなかった。

 ある日、石寒太からメールが届いた。第一句集『あるき神』を復刊するので、その栞を書いて欲しいというものだった。まさにこの文章のことである。これまでで一番大きな仕事に私は色めき立ち、すぐに取り掛かる旨返信した。ところが原稿は難渋し、一向に書き進めらなかった。理由ははっきりしていた。
 それは以前第五句集『生還す』を念頭に書いた「視座の変遷と獲得 石寒太小論」という文章に、先の筑紫磐井が説いた「否定のない世界」の続き、つまり『あるき神』以降の寒太俳句の変遷と深化を既に小論中に示してしまっていたからだった。
 詳細な内容は省くが、この小論では筑紫磐井に発見された「否定のない世界、森羅万象の中における生命への共感」が、『あるき神』の時点ではまだ「神の視座」を漂っており、完全には寒太自身のものになっていなかったとした。そして一九九九年「生存率四〇%」と医師に宣告された大腸癌の発病がターニングポイントとなり、「生への執着」が病床吟を書かせていくことになる。そこではじめて、一個の人間「石寒太」として、生に執着し続けることが生死に彩りを与え、死を避けようと生きること、死を受け入れることが精神の深くで合致し「否定のない世界」を獲得し『生還す』につながったと結論付けた。
 小論自体は粗があるものの、現在の石寒太が標榜する「いのちの俳句」というテーマに収斂していく構成は、いま読んでも面白いと感じられたのだが、これは、師には常に「右肩上がり」でいて欲しい、『あるき神』の頃の師より、私が出会って以降の師の方が本当の師であって欲しいという弟子の我儘・独り善がりが見え隠れする小論でもあった。
 つまり、師と弟子の関係に満足していた私は、師としての石寒太以外の寒太が見えなくなってしまっていたのだ。そのことにようやく気付くと、句集『あるき神』を出した若手俳人の姿が徐々に見えてきた。奇しくも『あるき神』が出版されたのは寒太37歳の12月、私が第一句集『サーチライト』(文學の森)を出したのも37歳の12月である。であれば、現代の炎環主宰石寒太の原点として『あるき神』を懐かしむのではなく、同じ年齢で句集を出した者として若手俳人石寒太の第一句集『あるき神』を解き明かすことが、私の役目になるだろう。

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ここまでが前振りなのだが、前振りだけで予定していた分量の半分を超えてしまったのと、回りくどく一向に話が始まらないため全ボツにして書き直すことにした。その後、パターンB、パターンC、Dと書き出しは続くがどれも迷走し、結局全部ボツにするしかなかった。

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